阪神淡路大震災から20年:心のケアと言うけれど:癒されない死別の悲しみと、そして「ありがとう」
■1995年1月17日
その日の朝早く。妻に起こされた。
「テレビ見て! 何か大変なことが起きたらしい」
テレビのブラウン管には、日本では起きるわけがないと思っていた大都市地震災害の惨状が映っていた。
■死別の悲しみ
6,434名の尊い命が失われた。目の前で家族の死を見た人々もいる。
プロも苦しんだ。
<被災地で働くプロを守ろう:消防士、自衛隊、警察官の心理ケア>
家族も苦しんだ。
死別の悲しみは、次のように癒されていくという。
- 死別の現実を受け入れる。
- 死別の苦しみ、悲しみを受け入れる。
- 変化した環境に適応する。
- 亡くなった方に注いでいたエネルギーを、新たな方向に向け変える。
とはいうものの、どうだろうか。
もちろん、ご遺族のほとんどは、今は元気に毎日を過ごしていらっしゃることだろう。でも、どうだろうか。
少なくとも主観的には、あの日の悲しみは少しも癒されていないと感じる人も、少なくないだろう。亡くなった人は、帰っては来ない。あの日も、今も、慰めの言葉もない。心のケアなんて、軽々しく言えない・・・・・。
とはいうものの。客観的に見れば、ご遺族の方々は元気を取り戻している。心の底の悲しみは生涯消えないかもしれないけれど、それでもやはり、少しずつ少しずつ癒されてきたと、言っても良いのだと思う。「あの地震さえなければ」と思い続けているとしても。
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■ありがとうございます。
私は今、新潟県に住んでいます。2004年には、新潟県中越地震が発生しました。新幹線の脱線もありました。それでも私が聞いたところでは、阪神淡路大震災の後、その経験を生かして道路や鉄道の高架が補強されていたそうです。もしそうでなければ、被害はさらに拡大していたでしょう。ありがとうございました。
避難所のあり方も、できるだけ近隣の方々を一緒にするなど、阪神淡路大震災の教訓が生かされました。ありがとうございました。
避難所のボランティアリーダーからお聞きしました。新潟中越地震の次の日、一晩中車を走らせて、神戸から来てくださった方いるそうです。阪神淡路大震災の時に避難所運営をされた方です。やってきて、阪神淡路大震災のときの経験を一日語り尽くして、そして仕事があるからと言って、またすぐに帰っていかれました。どうもありがとうございました。
中越地震の被災者のために何かできないかと考えた私は、ネットで情報発信をしようと思いました。
災害心理学の専門家でもない私は、資料を集めます。分厚い本を何十冊も積み上げました。多くは、阪神大震災の後に書かれた災害心理学関係の本や実践記録等の本です。本を開いて読みながら、涙が出てきました。あの大混乱の中、地元の研究者たちが中心となってデータ集められました。ジャーナリスト達が取材し、記事がまとめられました。多くの人が調査や取材にご協力くださいました。
おそらくたいして売れもしないだろうかたい本も、何冊も発行されました。そんな本を読んでいるうちに、それが、ありがたくてありがたくて、胸が熱くなってきました。
みなさんのご協力によって書かれた本は、次の災害発生時に、大変役立ちました。ありがとうございました。
今、東日本大震災の被災地で活躍されている、阪神淡路大震災の経験者もたくさんいらっしゃると聞いています。ありがとうございます。
阪神淡路大震災は、日本のボランティア元年と言われています。混乱もあったものの、災害ボランティアも徐々に育ってきて、日本各地の災害現場で活躍しています。本当に、ありがとうございます。
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あの日から20年。数えきれないほどの悲しみが、消えない悲しみがあります。報道もされない、部外者には想像もできない悲劇もあるでしょう。
そして、阪神淡路で、新潟で、東北で、日本中で、たくさんの「ありがとう」も生まれたことでしょう。