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センバツのお気に入り 第2日/美爆音だけじゃない! 習志野の栄光

楊順行スポーツライター
高校野球ファンの方へ。習志野はブラバンだけじゃないんですよ(ペイレスイメージズ/アフロ)

 サイレンの余韻が残るうちに、習志野(千葉)の一番・竹縄俊希の打球がショートを襲う。日章学園(宮崎)の百武優努の送球が低い。竹縄は一塁に生き、犠打のあと根本翔吾の右前打で生還した。その間、日章の石嶋留衣が投じたのはわずか6球。鮮やかな先制後も、高橋雅也の三塁打で2点を追加するなど、この回大量7点を奪った習志野は、終始主導権を握って8対2。10年ぶりのセンバツで、そのとき以来の1勝を挙げた。小林徹監督はいう。

「守りに入らず初回から流れに乗ろうと、あえて先攻を取ったんです。もらったチャンスですが、初球から振っていった竹縄の姿勢が勢いに乗せてくれました」

 九番として初回に3点二塁打を放ち、ショートとしては堅守で盛り立てた角田勇斗によると、

「じゃんけんで勝っての先攻です。去年の関東大会では、勝った3試合はいずれも先攻でしたし、応援の大音量でいきなり圧をかける意味もあったと思います」

 そう。習志野といえば圧倒的な応援でよく知られている。確かに、『レッツゴー習志野』ほかの迫力ある応援は、もし応援音量の記録を取っているとしたら、甲子園に出るたびにそれを更新しているように感じる。"美爆音"といえばいまや、高校野球ファンには習志野の代名詞だ。

 ただ、それだけじゃない。平成を飛び越えて昭和の時代までさかのぼると、習志野といえばもともと、高校野球の超ブランドなのですよ。

かつてはシュウシノといわれたり……

 明治以来の陸軍の演習場として知られた習志野原にちなみ、習志野市が誕生したのが1954年。市立習志野高校が創設されたのは57年で、校風には初代習志野市長の白鳥義三郎と、初代校長・山口久太の理念が強烈に反映していた。アマチュアスポーツ界のリーダーだった山口が「武」を重んじると、白鳥がこれを後押し。千葉商や成田という野球の伝統校と対等に戦うまで、さほど時間はかかっていないのはそのためだ。そして、1967年というから昭和42年のこと。学校創立11年目の習志野は、62年に続いて夏の甲子園に2度目の出場を果たすと、初戦から快進撃を見せる。準決勝で中京(現中京大中京・愛知)を破り、決勝でも広陵(広島)を圧倒して、千葉県勢として初めての全国制覇を遂げるのである。

 そのときのエースが、のちに監督となる石井好博氏だ。かつて何回か取材したとき、石井氏はこんなふうに回想していた。

「私が習志野に入学した65年ころはすでに銚子商が強く、勝負になるとしたら千葉商か習志野くらい。でも習志野はあの当時、全国的には無名でね。“シュウシノ”と呼ばれていたくらいですから、甲子園では、どこか強いところと当たって食ってやろう、ナラシノの名前を知らしめようという意識はありました。あの優勝で、千葉の野球のレベルを全国に見せられたと思う」

 石井氏お得意のけん制で4回も走者を刺すなどして、前年に春夏連覇をした中京をまさに"食って"の優勝。ナラシノの名は、全国に知れ渡った。石井氏はこの優勝のあと母校を率い、75年の夏には小川淳司(現ヤクルト監督)をエースに全国制覇を果たしている。全国制覇した投手として、監督としてもふたたび栄冠に輝いたのはそこまで、真田重蔵(40年海草中[現向陽・和歌山]の投手、63年明星[大阪]の監督)がいただけ。優勝投手が、その母校でも優勝監督となるのは史上初めてのことだった。石井氏は監督を退く2000年まで、春夏通算10回の甲子園に出場し、10勝5敗。小林現監督も、石井氏の教え子である。

銚子商と習志野で千葉黄金時代

 石井氏のいうように、当時、千葉県の高校野球を引っ張っていたのが1900年創立の銚子商だ。53年、県勢としてセンバツに初出場すると、58、59年の夏も甲子園に。63年夏にはベスト8に進出し、65年にはエース・木樽正明(元ロッテ)で甲子園準優勝を飾っている。そして74年には、土屋正勝(元中日など)がエース、四番に2年生の篠塚利夫(元巨人)がいて全国制覇。翌夏は習志野が優勝するのだから、当時は「千葉を制する者は全国を制す」といわれたほどだった。習志野生まれの、習志野育ちである小林現監督は、そういうナラシノを身近に見て、感じて進学した。

「75年の全国優勝のときは、小学6年生でした。優勝パレードも見ましたし、自転車で10分ほどのグラウンドにはよく練習を見に行っていた。前の年には銚子商が優勝していますから、千葉が強いのは当たり前という感覚でしたが、ふだん津田沼の駅前などで見かける人たちが全国優勝したというのは、誇らしい気分でしたね」

 その小林も、80年夏にはエースで四番として甲子園に出場。青山学院大卒業後は市船橋に赴任し、90年に監督に就任すると春夏5回の甲子園がある。母校に戻って監督を務めるのは、07年からだ。その小林監督にとっては、2度目のセンバツ。初戦を突破して次戦は、ナンバーワン投手・奥川恭伸のいる星稜(石川)である。難敵。

「まったく力が違うチーム。先のことなど考えていませんでしたから、これから研究しますよ」

 ちなみに千葉県勢の全国制覇は、自身がパレードを見た75年の習志野以来途絶えている。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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