突然、受けた癌の告知。それを克服した父・矢作芳人と見守った娘の物語
突然の癌の告知
2014年と16年にJRA賞最多勝利調教師賞を手にした矢作芳人。16年にはリアルスティールがドバイターフを優勝し、念願の海外G1初制覇も成し遂げた。しかし、まさにその年、伯楽はまさかの告知を受けた。
「PSAの検査をしたところ数値が高いと診断されました」
P S Aとはprostate-specific antigenの頭文字。この数値が高い場合に考えられる疾患の一つに前立腺癌があった。
そこで、早期発見のために特殊な検査薬で癌細胞に目印をつける、いわゆるPET検査をした。その結果、前立腺癌との診断。後にステージ2まで進行していた事が判明する。
「開成高校の同級生に医者も沢山いました。彼等が『今の医療なら大丈夫』と言ってくれた事もあって、悲愴感はありませんでした。たまには休むか……と切り替えて考えました」
同年7月13日、管理するキョウエイギアがジャパンダートダービーを優勝してから、約1週間。手術を施した。
「麻酔で眠らされる時は『このまま目を覚ませなくなるんじゃないか?』って不安になり、さすがに怖くなりました」
しかし「羊を5匹も数えたくらいで眠りに落ちた」。そして、目が覚めた時には尿管に管が差し込まれていた。
「痛みは丸2日間、続きました。管が抜けるまでが1週間。更に他の部分も管だらけで、寝返りさえ打てず、忍耐力が養われました」
今だから微笑まじりに話せるが、いつ終わるとも分からない痛みが日数単位で続くというのは、確かに地獄の苦しみだった事だろう。
退院は2週間で出来た。しかし、本当の戦いはそこからだった。筋肉のリハビリを行ったが、尿を制御する事が出来ず、紙オムツの生活が半年は続いた。
「普通の生活が出来るようになるまでは1年スパンでかかりました」
娘の涙と父の二律背反する気持ち
なんとか完治したかと思えた18年には連闘で挑んだモズアスコットが安田記念(G1)を優勝した。秋にはリスグラシューがエリザベス女王杯(G1)を制覇した。矢作の次女・矢作麗の大きな瞳から、涙が止めどなく溢れた。
リスグラシューの次なる標的は海の向こう。香港ヴァーズでG1連勝を狙ったが、2着に惜敗した。
「ゲートボーイの存在が大きい事もあり、連れて行ったのですが、環境の変化に対する弱さが出て、正直、万全と言える態勢に持って行くのは難しかったです」
そんなおり、再び芳しくない検査結果が出た。19年になってから精密検査をすると、33回に及ぶ放射線治療が必要と診断された。2月、3月は都内に残り、月曜から金曜まで、毎週5日、通院。放射線治療を行った。
「副作用で全身がダルくなりました。毎週日曜の夜『明日からまた治療だ』と考えるだけで憂鬱になりました」
そんな長い戦いを経て、病を克服した。闘病期間中、指揮官を欠いた厩舎は円滑に事を進められたのだろうか? 矢作が答える。
「仕事には一切影響しませんでした。私がいない事でスタッフは責任感が強くなりました。また、私自身も皆を頼るようになりました。そういう意味で絆はより強固なモノになったと思います」
4月にはリスグラシューが再び香港へ飛び、クイーンエリザベス2世カップ(G1)に臨んだ。
「結果的にはまたしても勝てませんでした(ウインブライトの3着)。でも、前年の香港ヴァーズの時よりも環境の変化には対応出来ていました。スタッフも頑張ったし、馬自身も成長してくれた事が嬉しかったです」
そして5月には府中の坂でラヴズオンリーユーが先行勢を一蹴。無敗で樫の女王の座に就いた。オークス(G1)制覇である。
「この時は自信がありました」
今秋、まずは秋華賞を目標として、結果次第ではジャパンカップや有馬記念といった古馬の牡馬相手のレースも視野に入れたいと言う。
そして、一足先に牡馬相手でも互角に渡り合っているのが、今週末の宝塚記念にも挑戦予定のリスグラシューであり、彼女の名が出ると思い出されるのは先述した次女・麗の涙である。
矢作は言う。
「女房とスタッフとの信頼関係は私となんら変わらないくらい強いものがあります。ただ、子供達の中で、競馬関係の仕事に就いたのは次女だけです」
矢作には4人の娘と1人の息子。計5人の子供がいる。その中で麗だけが、父の職場に出入りする仕事に就いた。グリーンチャンネルのキャスターだ。昨年のエリザベス女王杯。テレビカメラの前で、溢れる涙を止められなくなった。父の闘病生活とその苦悩を知っていたからこそ、と思える涙ではあったが、父はその行為を叱ったと言う。
「『おまえはプロだろう!!』と叱りました」
キャスターとして、事実を伝えなければいけない。そこに個人的な感情をないまぜにするのはプロではない。矢作はそう伝えたかったのだろう。リーディングをとる男である。仕事に対しては厳しい姿勢を貫いて来たのは分かる。しかし、彼は血も涙も無い男ではない。スタッフへの態度や、ジョッキーの起用法を見ても、実は情に厚い男である事は容易に察しがつく。だから、彼らしい二律背反のひと言が、口をつく。
「そう言って叱りはしたけど、正直、親としてはウルっと来るモノがありました」
癌を克服した父と、それを見守っていた娘が共に目頭を熱くするシーンは果たして今週末も見られるだろうか。物語が素晴らしい結末へ続く事を期待したい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)