【名将の野望を粉砕】あまりにも難攻不落だった城・3選
日本史の戦乱期には、数々の名将や大大名が、各々の野望や目的のために、勢力拡大を図りました。
しかし・・。難攻不落、鉄壁。
その並外れた防御力で、攻め手の勢いを粉砕。守備側にとっては、大ピンチから救ってくれた城が存在しました。
日本には数えきれないほどの城が存在しましたが、中でも実際に戦いが行われ、なおかつ攻め手の心をへし折った名城・3選をご紹介したいと思います。
鉄壁すぎた城・その1【小田原城】
戦国時代、関東一円に一大勢力を築いた、北条氏の本拠地です。
しかし同じ時代には、今の新潟県に“越後の竜”や“軍神”といった呼び名もあり、
無類の強さを誇った、上杉謙信という武将がいました。
ときは1560年。その上杉軍が怒涛の勢いで、北条家に攻めかかります。
しかも進軍するほどに、関東の豪族は次々と上杉方に恭順。
最終的には10万をも超える大軍となって、押し寄せてきました。
ところが小田原城は、戦国時代でも屈指の防御力を誇る、巨大な名城。
果敢に攻め立てても、まったく落ちず。
逆に囲んでいる間に、食料の輸送路を脅かされるなどして、揺さぶりをかけられます。
また留守にしている本拠地が心配になり始めたこともあり、ついには諦めて引き上げて行きました。
すると、いったんは上杉に味方した関東の勢力も『やはり、この地域の支配者は北条様じゃ。』とばかり、ふたたび従う先を鞍替え。
北条家は関東の覇者へと、返り咲いたのでした。
もしここで小田原城が陥落していれば、ただでさえ恐るべき上杉謙信が、関東を手中に収めて、巨大勢力となっていました。
武田も徳川も織田も対抗し切れず、敗れ去ったかも知れません。
それを阻んだ小田原城は、まさに歴史の流れを左右させた、名城と言えるでしょう。
鉄壁すぎた城・その2【月山富田城(がっさん・とだじょう)】
まだ織田信長も生まれて、間もない幼少の頃。
今でいう山口県には、巨大な勢力を誇る大内家という大名が存在していました。
最盛期には、その支配圏は当時の7か国にも及んだと言われる、とうじ屈指の大大名です。
西は北九州や博多まで支配し、外国との貿易を独占。
東は現在、世界遺産となっている石見銀山をも手中に納め、巨万の富を築いていました。
さて、そんな大内家は大軍を編成し、天下統一へと歩み出します。その最初の障害は、
いまの島根県・出雲の国を支配していた、尼子(あまご)家。
大軍を動員して攻め入ると、あっというまに尼子軍の防衛線を突破。
領土の奥深くまで進撃しました。
ところが本拠地の月山富田城は、山の地形を利用した難攻不落の要害。
4万とも言われる大軍で攻め立てても、びくともしません。
逆に時が経つほど、攻め手の方が疲れてしまいました。
そうこうするうち、逆に城から打って出てきた尼子軍に強力な反撃を喰らい、大内軍は壊滅。
総大将の大内義隆は命からがら、本拠地へ逃げ帰ることができましたが・・この大惨敗がトラウマに。
これ以降、自身の領地へ引きこもってしまい、そして次第に内部分裂が生じ、ついには謀反が起こって滅亡。
一時は天下取りレースの有力候補でしたが、そんな名門を粉砕した月山富田城。
まさに鉄壁と言える、名城です。
鉄壁すぎた城・その3【熊本城】
ときは1877年。江戸から明治となり、今までの名誉や権利を奪われたサムライ達が、西郷隆盛をリーダーとして、政府に反乱。
世にいう西南戦争が勃発します。
さて、鹿児島を出発した反乱軍16,000人に対し、政府軍約3,500人が、熊本城に籠もり、進軍を阻む構えをみせました。
このとき西郷隆盛としては、籠城している将兵の実力や戦力差からも、落とせるだろうと予想し、その先の様々な戦局を、思い描いていました。
また熊本城は、戦国時代に加藤清正という名将が築きましたが・・時代は遥かに進んでいますので、戦いはほぼ銃や大砲の撃ち合いと、兵器も様変わりしています。
ところが熊本城の防御力は、闘いの手法が変わっても、いまだ健在でした。西郷軍は全く攻め入れず、完全に出鼻をくじかれます。
その後も兵糧攻めや、水攻めや、あの手この手で攻略を試みますが、陥落せず。
そうこうしているうち、明治政府の援軍が到着し、敗れてしまいました。
サムライ復権の夢は皮肉にも、かつてサムライの中のサムライであった名将、加藤清正の遺産により、阻まれてしまったのでした。
【まとめ】
以上、難攻不落を誇った城・3選をお話しました。
お城と言うのは、その美しさや城下町の歴史なども素晴らしいですが、もともとは守るために存在するもの。
難攻不落や鉄壁と言ったエピソードには、ロマンを感じてしまいます。
この記事をご覧のあなたも、ぜひ日本全国いろいろなお城の歴史に、思いを馳せてみてください。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。