【九州三国志】孤城を守る者たち!戦国を駆け抜けた問註所統景・政連の物語
問註所統景は、大友氏の家臣として活躍した武将であり、天正6年(1578年)の耳川の戦い後も、大友氏への忠義を貫いた数少ない武士の一人です。
肥前の龍造寺勢が筑後に進出し、多くの勢力が次々と大友氏を離反する中、統景は居城・長岩城を守り抜き、秋月氏・星野氏の連合軍を退けるなど孤軍奮闘。
ついには、大友家の象徴である杏葉紋の使用を許され、一門同様の待遇を受けました。
龍造寺隆信の死後も筑後支配の要として活躍し、敵対勢力を駆逐。
さらには島津氏の侵攻を受けるも、籠城戦で最後まで城を守り抜いたのです。
豊臣秀吉の九州平定後は、小早川氏に従い、文禄の役にも参陣。
しかし、文禄2年(1593年)に朝鮮での戦闘中、弟の町野正白と共に先鋒として壮絶な最期を遂げました。
その子・政連は父の死後に流浪を経て、立花宗茂に仕官。
関ヶ原の戦いでは宗茂に従い戦功を挙げたが、宗茂の改易とともに所領を失います。
その後、加藤清正に仕え、宗茂の再封後は柳河に戻り、客分待遇で仕官。
晩年まで家名を守り抜き、寛永14年(1637年)に死去しました。
統景・政連親子の物語は、大友氏を支え、乱世を駆け抜けた一族の矜持を伝えています。