【九州三国志】立花誾千代、勇猛なる姫の物語!戦場に生き、歴史に名を刻んだ女傑
立花誾千代は、大友家の重臣・戸次鑑連(立花道雪)の一人娘として生まれ、幼少期から特異な運命を歩み始めました。
父が男子を持たなかったため、7歳にして立花城の城主に任命され、大友宗麟の安堵を得て「城督」の地位に就くという、戦国時代においても稀有な例であったのです。
その名前に含まれる「誾」という文字には、“慎み深く人の話を聞く”という意味が込められ、幼少期から知性と品格を兼ね備えた姫君であったことが偲ばれます。
誾千代は天正9年(1581年)、高橋紹運の長男である統虎(後の立花宗茂)を婿に迎え、立花家の繁栄を担う存在となりました。
宗茂が婿養子として立花家を継ぐと、戦国の激動に立ち向かう日々が始まったのです。
父・道雪が耳川の戦い後に陣没し、義父・高橋紹運が岩屋城で討死するなど、次々と失われる家族を支えながら、誾千代は夫と共に立花家の復興を図りました。
九州平定後は豊臣秀吉の直臣となり、筑後柳河(柳川)に拠点を移すも、誾千代自身は宮永村に居を構え「宮永殿」と呼ばれるようになります。
その背景には夫婦の不和があったと伝えられているが、宗茂との絆は完全には途切れることなく、戦国の困難を共に乗り越えていくのです。
関ヶ原の戦いにおいては、誾千代の勇猛な姿が伝説となりました。
宗茂が出征中に柳川に戻ると、誾千代は自ら従者を率いて出迎え、戦局の指揮を執るほどの強い意志を見せたのです。
また、加藤清正の軍勢が柳川に迫った際には、誾千代が威厳を持って睨みを利かせ、加藤軍を迂回させたという逸話が残されています。
この勇ましい行動は領民からの絶大な信頼を得た彼女の姿を象徴しています。
しかし、関ヶ原の戦い後、宗茂が改易されると誾千代の生活は一変。
肥後国玉名郡腹赤村の市蔵宅に移り住み、34歳の若さでこの世を去りました。
その死後、父・道雪の血筋は途絶えたが、その勇猛な精神は後世に語り継がれたのです。
誾千代はただの武家の姫ではありませんでした。
鉄砲を自在に操り、薙刀の名手としても名を馳せた戦場の女傑であり、時には領民の愛と尊敬を集める慈愛の人でもあったのです。
彼女の姿は、戦国時代の厳しい現実の中で生き抜いた一人の女性の力強さを物語っています。
三柱神社に父と夫と共に祀られる誾千代は、慈愛と勇気の象徴として今なお多くの人々に敬われているのです。