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2年連続で30本未満のキング誕生?本塁打王の「相場」は果たして何本か?

阿佐智ベースボールジャーナリスト
現在セ・リーグのホームランランキングの首位を行くヤクルトの村上(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

 現在、プロ野球両リーグのホームランランキングを見てみると、パ・リーグの方は山川穂高(ソフトバンク)が、2位のグレゴリー・ポランコ(ロッテ)を9本引き離す28本を放っていて、キング当確としている。怪我でもしない限り30本の大台をクリアすることは間違いないだろう。

 しかし、一方のセ・リーグの方は30本台のキングは微妙なところだ。1位の村上宗隆が23本でこれを21本でタイラー・オースティン(DeNA)、岡本和真(巨人)が追いかけている。

 ところで、これまでのプロ野球の歴史で30本に満たない数字で本塁打王を獲得した例はあったのだろか。過去のデータを調べてみた。

20本が「大台」だった1リーグ時代

 日本でプロ野球リーグが始まったのは1936年のことである。この時の1リーグ制は戦後の1949年まで続くが、そもそも草創期は春と秋でそれぞれシーズンが独立しており、チーム当たりの試合数が少なかったため、個々の選手のホームラン数が30を超えることは考えられなかった。10本の「大台」をクリアしたのは、1938年の秋シーズンのことで、中島治康(巨人)が10本で本塁打王を獲得。同時に首位打者、打点王も獲得し、史上初の三冠王となっている。

 ちなみにこの1938年秋シーズンのチーム当たりの試合数は40(中島の出場数は38)。現在の143試合数に換算すると、36本となる。しかし、一方で35試合制のこの年の春シーズンでは中島は首位打者を獲得したものの、本塁打はたった1本しか放っていない。1938年トータルではチームの総試合数75に対して中島の総本塁打は11。143試合換算では21本となる。

 プロ野球は翌1939年から通年シーズン制を採用し、チーム当たりの試合数も96と激増する。しかし、本塁打王となった鶴岡一人(南海)の数字は前シーズンの中島と同じ10。その後も、総試合数が増えなかったこともあって、2ケタ本塁打を記録する打者が現れることはなかった。プロ野球が発足し、シーズンを重ねれば打者の技量も上がってくるはずだが、ホームラン数が伸びなかった最大の理由は、やはりボールの質が悪かったからだろう。

 太平洋戦争による中断を経て、プロ野球のリーグ戦は1946年に復活するが、焦土と化した日本に希望をもたらしたのは、ホームランだった。この年、2年ぶりに行われたプロ野球はチーム当たり105試合で行われたが、ホームラン王となったセネタースの大下弘が記録した数字は、空前絶後の20。豪快なホームランをスタンドに放り込む大下の豪快な打撃は、安打製造機の川上哲治(巨人)の「赤バット」と並び称される「青バット」として国民に愛された。

 大下は翌年もキングに輝くがその数は17と、「大台」をクリアすることはなかった。その翌1948年は巨人の両雄、川上と青田昇が新記録となる25本でキングを分けたが、それでも30本をクリアすることはなかった。

「革命」を呼んだラビットボール

 ふたりが作った新記録は、しかし、たった1年で破られてしまう。1リーグ制最後となる1949年のキング、藤村富美男(阪神)がこの年放った本塁打数はなんと46。前年の新記録を21本も上回る量産ぶりで新たな金字塔を打ち立てた。彼の他、2位の別当薫(阪神)が39本、3位の西沢道夫(中日)が37本と30本オーバー。それに4位の飯田徳治(南海)も27本と実に4人が前年の「日本記録」を抜き去っていった。

 これは一過性の現象とはならなかった。翌1950年から日本プロ野球はセ・パ2リーグ制に移行するが、この年もシーズン本塁打の記録は塗り替えられる。セ・リーグの初代キングとなった小鶴誠(松竹)が「50本超え」(51本)で新記録を打ち立てたのだ。一方のパのキング、別当薫(毎日)も43本を放っている。

 これだけの本塁打の急増を打力の向上だけで説明することには当然無理がある。1949年から採用されたボールが「飛ぶ」仕様で作られていたのだ。いわゆるラビットボールである。ホームラン王の小鶴擁してセ・リーグの初代王者に輝いた松竹の1試合平均得点は実に6.6点。あまりの打高状態にこのボールは2シーズン限りで採用を取り消された。

 その結果、1951年のホームラン王の数字はセが青田の32、パが大下26と落ち着き、その後の10年ほどはキングの目安は30本前後となる。1951年から61年の11シーズン、26人のキングが誕生したが、そのうち実に15人が20本台でタイトルを獲得している。

不世出のスラッガーがキングの目標値を40本台に

1960年代のパ・リーグのホームランキングとして君臨した野村克也(南海)
1960年代のパ・リーグのホームランキングとして君臨した野村克也(南海)写真:岡沢克郎/アフロ

 ところが1960年代になるとキング獲得のハードルが一挙に40本前後に上がってしまう。

 1962年の両リーグのホームラン王には歴代本塁打数トップ2の両巨頭が名を連ねた。セ・リーグでは王貞治(巨人)が38本で初タイトルを奪取。パ・リーグの方は、前年29本だった野村克也(南海)が44本に伸ばして2年連続のタイトルを獲得する。

 この後7シーズン、両者は本塁打王を独占した。野村が1963年に52本を放ち日本新記録を打ち立てると、その翌年には王が55本でこれを破るなど、ふたりはホームランキングのあるべき姿として「40本超え」を球界に示した。

 パのホームラン王の数字は、1966年以降、野村が30本台にとどまるのだが、その後は長池徳二(阪急)と大杉勝男(東映)が凄絶な「ポスト野村」争いを演じることになる。長池が野村の牙城を崩した1969年以降、最後に長池がタイトルを獲得する1973年まで本塁打王の数字は40を下回ることはなかった。

 そして、セ・リーグでは、王が50本塁打で最後にキングとなった1977年まで王からその座を奪ったのは1975年に43本を放った田淵幸一(阪神)のみ。その後、セ・リーグの本塁打王争いは山本浩二(広島)と掛布雅之(阪神)が演じるようになるが、1981年に山本が43本で3度目のタイトルを獲得するまで、セ・リーグのホームラン王の数字が30本台にとどまったのは1971年の王が記録した39本だけであった。

「再び飛ぶボール」が俎上に

 こうして1960年代以降、ホームラン王の「相場」は40本前後となった。ホームランは野球の華。ハイレベルでの本塁打王争いはファンを沸かせたが、当時は各球団がバラバラに試合球を決め、これにコミッショナーがお墨付きを与える制度だったため、これを「悪用」するようなことも行われるようになったようだ。

 1970年代終わりごろから1980年代初めにかけて再びラビットボール騒動が起こる。試合中にコミッショナーの印のないボールの使用が発覚したり、敵味方の攻撃時でボールのメーカーが変わっているという疑惑が浮上したりと「飛ぶボール」が問題視されるようになったのだ。

 この時代、他社と比較して「飛ぶボール」があったのは確かなようで、当時南海に所属していた「安打製造機」・新井宏昌は、打球をポンポンスタンドに入れる敵チームの打撃練習を見て、自軍とその球団の試合球を分解してみると、芯を縛る糸の強度などが明らかに両者で違っていたという。

 また、この頃になると従来から使用されていた表面を樹脂加工した「圧縮バット」が反発力を強めているのではないかと問題視されるようになり、1981年から使用を禁止されるようになったが、そのためか、1982年には、21年ぶりに両リーグの本塁打王の数字が30本台にとどまるということになった。その後、1984年まで40本超えを果たしたのは1983年のパ・リーグのキング、門田博光(南海)が40本を記録したのみだった。

昭和終盤のパ・リーグを代表するホームランアーチスト、門田博光(南海)
昭和終盤のパ・リーグを代表するホームランアーチスト、門田博光(南海)写真:岡沢克郎/アフロ

「国際規格」の導入で「40本超え」は希少価値に

 1980年代中盤は、ランディ・バース(阪神)、落合博満(ロッテ)という三冠王の登場によりホームラン王の「相場」は再び押し上げられる。とくに1985年はバースが54本、落合が52本と両リーグのキングがともに50本超えという史上初めての出来事が起こった。

 しかし、この後、ホームラン王のハードルに微妙な変化が現れる。セ・リーグでは30本台が当たり前になり、パ・リーグは40本台を維持するものの、外国人助っ人がタイトルを独占するという状況になるのだ。

1988年に開場した日本初のドーム球場、東京ドームは当時日本で一番広い球場と言われた
1988年に開場した日本初のドーム球場、東京ドームは当時日本で一番広い球場と言われた写真:アフロ

 1988年、日本初のドーム球場として東京ドームが開場した。それまでの日本の球場のほとんどは両翼99メートル、中堅120メートルとされる「国際規格」(実際は努力義務)を満たしておらず、「箱庭野球」などと揶揄されていたが、この新球場はこの規格を満たしており、ここを本拠とする巨人、日本ハムのホームランが減るのではないかと言われた。

 この年には、のち1991年からオリックスのホーム球場となるグリーンスタジアム神戸(現ほっともっとフィールド神戸)も開場している。この球場は国際規格を満たしている上、センターから両翼間のふくらみがあり東京ドームよりさらにフィールドが広く、この後、日本のプロ野球は外野の間を抜く長打で塁間を駆け抜ける「スモールボール」の原型を形づくっていく。

 この後日本のプロ野球の常打ち球場は「広域化」の道を歩む。1991年に阪神の本拠、甲子園球場の深い左・右中間にあったラッキーゾーンが撤去され、1990年完成の千葉マリンスタジアム(現ZOZOマリンスタジアム)に92年、ロッテが移転した。そして1995年に福岡ドーム(現ペイペイドーム)、1997年に大阪ドーム(現京セラドーム)、ナゴヤドーム(現バンテリンドーム)が開場、さらには1998年には、西武球場(現ベルーナドーム)が外野フィールドを拡張した上でドーム化を完成させた。これらドーム球場は全て国際規格を満たしており、打者にとってはホームランを打つハードルは確実に上がった。

 東京ドーム開場以降、セ・リーグでは1998年に松井秀喜(巨人)が34本で獲得するまでホームラン王のタイトルは、「国際規格」未満の「旧球場」を本拠とする選手が獲得している。一方のパ・リーグでは、1995年に規格を満たす上、現在のようにラッキーゾーンならぬ「ホームランテラス」もなく、6メートル近い外野フェンスを備えた福岡ドームを本拠とするダイエーの小久保裕紀がホームラン王を獲得したが、その数は1961年以来24年ぶりの20本台となる28本にとどまった。

 フィールドの拡張が進んだ1988年から2000年までの13シーズンで本塁打王は26人。このうち40本を超えるホームランを放ったのは、セ・リーグで3人、パ・リーグで5人の計8人である。このうち国際規格を満たした「新球場」を本拠としていたのは、40本を放った1999年のタフィ・ローズと42本を放った2000年の松井だけである。

再び「飛ぶボール」の時代へ

 ところが世紀が変わると、再びキングの相場は40本台となる。それも40本台半ばを打たないとタイトルを獲るのは難しくなっていく。

 2001年のパ・リーグでは、ローズが2度目のタイトルを獲得するが、この時の記録は王のもつ日本記録に並ぶ55本。そしてその翌年にもアレックス・カブレラ(西武)が同数を打ちキングに輝いた。またこの年には、セ・リーグの方でも松井が50本を放ち、1985年のバース、落合以来17年ぶりに両リーグ本塁打王の50本超えを達成している。

 2001年から2010年までの10シーズンの本塁打王は22人。このうち、30本台に終わったのは、5人しかいない。それも2001年のロベルト・ペタジーニ(ヤクルト)と2009年のトニ・ブランコ(中日)の本塁打数は39。30本台前半に終わったのは2006年の小笠原道大(日本ハム)、2010年のT-岡田(オリックス)だけだ。

 この時代の「打高」は顕著で、実際東京ドームの1試合当たりの本塁打数は、開場当初と比べ2.5倍ほどに増えていたという。

 この原因は当然のごとくボールだった。特定のメーカーのボールが非常に飛びやすいというので各球団がこぞって使っていたのだ。この時代、ホームランだけでなくヒットも量産され、打撃十傑のほとんどは3割バッターが占めるという状況にもなった。

 この「打高」状態についにコミッショナーが腰を上げた。いわゆる「統一球」の導入である。

 2011年からNPB主導で導入された「統一球」の効果はてきめんだった。総本塁打数は前年の1605から939に激減した。ただしこの球は飛ばすツボを心得た打者にはさほどの影響を与えなかったのか、この年パ・リーグでは、中村剛也(西武)は自己最多タイの48本を放って3度目のタイトルを手にしている。

 選手から猛反発を受けたこのボールは、後で調べてみると基準の反発値を満たしていないことが分かったという代物で、結局2シーズンしか使用されなかった。この間、ホームラン王のタイトルは根っからのホームランアーチストの中村とウラディミール・バレンティン(ヤクルト)に独占されている。

 そして2013年から反発係数を上げた「新統一球」が採用されたのだが、この効果もまた絶大で、バレンティンはいまだ狭い本拠地球場も相まってこの年、王の記録を破る60本塁打を放っている。

球の質、球場の広さ、投手力、様々な要因で左右される本塁打数

今シーズンもキング争いを演じる岡本(巨人)
今シーズンもキング争いを演じる岡本(巨人)写真:CTK Photo/アフロ

 2014年以降、昨年までの10シーズンのホームラン王の数字を見てみると、セ・リーグでは40本超えの本塁打王は5人で、30本台に終わった年もおおむね40本に近い数字がマークされている。一方のパ・リーグの方は40本台をマークしたのは山川穂高(当時西武)の3回だけで、これは本拠地球場の広さが大きく影響していると考えるのが妥当だろう。実際、セで40本以上を記録した打者の内、国際規格を満たした球場を本拠としているのは昨年41本塁打を放った岡本のみである。それに加え、2000年代後半以降、投手力がアップしたと言われるパ・リーグの方がホームランを放つことは難しくなってきているとも考えられる。それが顕著に現れたのが昨シーズンで、41本の岡本に対し、パは26本でポランコ、近藤健介(ソフトバンク)、浅村栄斗(楽天)の3人がタイトルを分け合った。20本台でのタイトルは1995年の小久保以来で、3人のキングは史上初である。

 昭和末期の「打高」時代は、マシンの導入などにより打者の技量は上がっていくが、投手は本質的に投げるしか練習方法がないとされ、その傾向は改まることはないだろうと言われていた。そこで、フィールドの拡張、使用球の反発係数の調整など行われてきたが、その後トレーニング方法の開発などにより投手の球速が飛躍的に上がり、近年は、いったんは消滅した「ラッキーゾーン」がいくつかの球場で復活するなどの「打者救済策」が講じられるようにもなってきている。

 とくに今シーズンの「投高」傾向には、現場からも試合球が変わったのではという声もあがっており、乱打戦の繰り広げられたオールスター戦では、「お祭り仕様」の「飛ぶボール」が使用されているのではという「疑惑」もささやかれた。

 本来スポーツは、同一の条件の下で競われるべきものではあるが、野球というスポーツは不思議で、外野フェンスまでの距離さえ球場ごとに違っている。その多様性もまた野球の醍醐味であるのかもしれないが、やはり140試合以上でホームランキングの数字が20本台というのはいかにもさびしい。タイトル争いを繰り広げているスラッガーたちには是非とも30という数字はクリアしてもらいたいものだ。

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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