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40歳を過ぎ、息子と同じタイミングで新たな道に挑戦する元名騎手の物語

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
菅原俊吏騎手(当時)。撮影=横川典視氏

騎手になるという夢をおいかけて

 誕生日は1981年4月28日だから現在43歳。水沢競馬場近くで菅原俊吏は生を受けた。祖父に命名された彼は3人兄姉弟の末っ子として育てられた。

左の桃色帽が菅原俊吏元騎手
左の桃色帽が菅原俊吏元騎手

 「初めて馬に乗ったのは小学3年生くらいの時でした。日曜乗馬教室というところで体験しました」
 また、父に連れられて、水沢競馬場へもよく通った。そんな経緯から騎手に憧れて、中学卒業時に競馬学校の試験を受けた。
 「体重が重くて、JRAもNARも落ちてしまいました」
 騎手への道は断念せざるを得なかった。水沢農業高校に入学すると、馬術部に入部。初めて本格的に馬に乗った。そして、この時、1人の女性と出会うと、お付き合いを始めた。
 「高校卒業後、水沢競馬の親戚の厩舎に厩務員として入りました」
 しかし、目の前で競馬を見ていると、再び騎手としてレースに乗りたい気持ちに火が点いた。
 そこで一念発起。海を越える決心をした。
 「2000年の10月にオーストラリアへ渡り、ゴールドコーストにある競馬学校に入りました」
 1年学んだ後、騎手コースを選択。厩舎で調教に乗りながら実践に携わった。
 「日本流にいう能力試験のような形で、ゲートからゴールまで走るバリアトライアルというのがあります。これに規定の回数乗って、調教師からも許可がおりると騎手免許が発給されます。半年以上かかりましたが、なんとか騎手免許を取得できました」
 こうしてかの地で念願の騎手デビューが出来た。
 「約2年、ほぼ毎週乗り鞍があって、24勝くらい出来ました」
 余談だが、当時同じように騎手を夢見た藤井勘一郎と、同じ厩舎で切磋琢磨していたと言う。

日本で再会する藤井勘一郎元騎手(右)とはオーストラリアで切磋琢磨した仲だった(撮影=横川典視氏)
日本で再会する藤井勘一郎元騎手(右)とはオーストラリアで切磋琢磨した仲だった(撮影=横川典視氏)


 その後はビザの関係もあって帰国。05年から改めて岩手競馬を目指し、騎手試験にトライすると、2度目の受験で見事に合格。07年2度目の騎手デビューを果たした。
 このタイミングで、菅原にはしなくてはいけない事があった。
 「高校時代に出会った彼女とは、オーストラリアへ行って離れ離れになっている間も交際を続けていました」
 国境を越え、時間がかかっても夢を追い続けた男をずっと待っていてくれた彼女と、籍を入れたのだ。

ついに東京競馬場で騎乗

 岩手では当時、所属していた厩舎の、調教師が騎手時代に着ていた服色を参考に“黒、胴桃襷”の勝負服でデビューした。
 「オーストラリアでは芝のレースだけだったので、日本に戻ってから初めてダートの競馬に乗りました。馬を走らせるために騎手の体力が必要だと痛感しました」
 また、当初から競馬場の廃止問題が取り沙汰され、落ち着かないままの門出となった。
 「最初は乗り鞍を探すのも大変でした」
 しかし、ついに辿り着いたジョッキーという称号を、簡単に手放す気は毛頭なかった。腐らず毎日努力を続ける事で徐々に乗り数が増えた。比例して勝ち星も増えると11年にはリュウノキングダムを駆ってトウケイニセイ記念を優勝。自身初の重賞制覇を飾った。
 同じ年、苦しい思いもした。例年盛岡で行われるマイルChS南部杯(JpnⅠ)だが、この年は東京競馬場を舞台にした。ここで菅原はロックハンドスターの騎乗依頼を受けた。「まさか東京競馬場で乗れるなんて……」と、夢心地で上京。同馬に跨った。

11年、東京競馬場で騎乗を果たした
11年、東京競馬場で騎乗を果たした


 しかし、トランセンドが先頭でゴールした時、菅原の姿はロックハンドスターの鞍上にはなかった。
 「落馬してしまいました。東京で乗れる嬉しさに舞い上がっていたわけではないけど、結果として、多くの関係者やファンの皆様にも迷惑をかけてしまいました」
 それが影響したわけではないが「その後も決して楽だったわけではありません」と言った後、続けた。
 「ただ、17年に乗り替わりで桐花賞を勝てた(エンパイアペガサス)あたりから、良い馬が回ってくるようになりました」
 岩手競馬がシーズンオフとなる冬場は、荒尾や佐賀、福山等、他場でも積極的に乗った。

「エンパイアペガサスとの勝利をきっかけに軌道に乗りました」と菅原俊吏元騎手(撮影=横川典視氏)
「エンパイアペガサスとの勝利をきっかけに軌道に乗りました」と菅原俊吏元騎手(撮影=横川典視氏)

息子と共に新たな挑戦をスタート

 長年の夢を叶え、順風満帆と思えた騎手人生だが、20年2月、自らの意思でいきなり引退を表明した。
 「当時、中学1年だった息子が『騎手になりたい』と言い出しました」
 長年、苦楽を共にした夫人との間に、一男一女をもうけていた。その長男の願いを聞き、菅原は思った。
 「自分みたいに遠回りさせたくない」

 夫人に相談すると、賛成してくれた。
 そこで、出来る限りのサポートを誓った。
 その手始めが「どうせ騎手になるならまずはJRAを目指そう」と、美浦トレセンの乗馬苑に長男を入れる事だった。
 「息子のために自分は引退をして、一緒に美浦の近くに引っ越す事にしたんです」
 こうして菅原は鞭を置いた。
 しかし、世の中、コトはなかなかうまく運ばなかった。美浦の乗馬苑は定員オーバーとなり、菅原の長男は抽せんの結果、入苑出来なかった。
 「結果、千葉の馬事学院に入りました。美浦の近くからそこへ通いました」
 こうして中学卒業時にJRAの競馬学校を受験。一次は突破したが、二次で不合格。それでもNARは合格したので、この4月からはそちらに入学した。


 「この間、自分は千葉の牧場で働いていました。息子がNARの方に合格した時点で私は岩手に帰ろうかとも考えました」
 しかし、我が息子の頑張る姿を見て、考え直した。
 「自分ももう1度チャレンジしてみようと思い、JRA競馬学校の厩務員課程を受けました」
 合格した。
 そして、24年4月、長男と同じタイミングでスタートラインに立った。美浦・大竹正博厩舎での持ち乗り厩務員を皮切りに、7月からは新開幸一厩舎で調教助手として、務めている。

大竹厩舎時代の菅原俊吏現調教助手
大竹厩舎時代の菅原俊吏現調教助手

 「地方しか知らなかったのでJRAのスケールの大きさに戸惑うばかりです。この年齢で新たな世界を覗けて、毎日、楽しいですけど、坂路で乗るのも人生で初めてだったし、調教の時計を合わせるのには苦労しています。先生方は気を使ってくれてキツく叱られる事はないけど、それに甘えないで、指示通り乗れるように努力を続けるしかないと、自分なりに頑張っています」

 長男については「騎手としての技術面とか、そういった話はまだしていませんが、たまに電話がかかってくるので、話はします」と言った後、次のように続けた。
 「『音楽の世界に進みたい』と言う娘共々、子供達は妻のお陰もあって真面目に育ってくれました。だから、何も心配はしていません」
 そう言った時の表情は父親のそれだった。それぞれのステージでスタートを切った菅原父子の今後に注目しつつ、また明るい続報をお伝え出来る日が来る事を願いたい。

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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