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武豊をパドックで曳いた男が、愛妻らのサポートを受け、騎手になるまでの物語

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
厩舎スタッフ時代はパドックで武豊騎手を曳いた事もある坂口智康現騎手

1度は破れた騎手の夢

 24年3月、異色のジョッキーのデビューが話題になった。
 坂口智康。1990年12月生まれ。33歳でのデビューだった。

坂口智康騎手
坂口智康騎手


 福岡県久留米市で、3人兄妹の長男として育てられた。幼少期は器械体操や野球に興じた。競馬に興味を持ったのは中学2年生の時。家族に連れられて、実家近くの佐賀競馬場を訪れ、初めてレースを観た。
 「騎手を夢見て、中学卒業時に競馬学校を受けようとしました」
 しかし、願書の受付期限が過ぎていた。そこで高校へ進学。騎手は諦めたが、JRAに携わる職に就きたいと考え、乗馬を始めた。初めて馬に乗った時の感覚を振り返る。
 「目線の高さや味わった事のない動きには驚いたけど、怖いとは思いませんでした」
 08年、3年生の時だった。小倉競馬場へ観戦に行った日のメインレース・小倉2歳S(GⅢ)を勝ったのはデグラーティア。手綱を取ったのは浜中俊だった。
 「JRAのレースを観戦したのはこの日が初めてでした。ウィナーズサークルではメインを勝った浜中さんにサインをもらいました」

高校生の頃、浜中俊騎手のサインをもらった
高校生の頃、浜中俊騎手のサインをもらった


 騎手こそ諦めたが、競馬への情熱は失っていなかった。目指したのは調教師かJRAの職員。そのためには大学は卒業しておこうと専修大学経済学部に入学した。
 「馬術部に入部し、馬には乗り続けました」
 12年には個人で関東学生優勝、全日本学生準優勝と活躍した。

馬術部で活躍した学生時代(本人提供写真)
馬術部で活躍した学生時代(本人提供写真)

調教助手から騎手を目指す

 13年3月に大学を卒業した。その際、JRAを受けたが最終選考で不合格になったため、同年4月からは坂東牧場で働いた。
 「15年11月までお世話になりました。生産と育成部門で働き、シャドウシルエットやコウキチョウサンらに携わりました」
 「今、思うと当時から障害競走と縁があったみたいですね」と述懐した。
 その後、16年に競馬学校厩務員課程に入学。同年6月に卒業すると、9月に美浦トレセン入り。調教厩務員を経て20年10月からは尾形和幸厩舎で調教助手になった。
 この間も調教師を目指していた坂口に転機が訪れたのは21年になってからだった。
 「当時障害馬術のトップライダーだった小牧加矢太騎手が、障害専門の騎手免許試験を受験するというニュースを耳にしました。『そんな事が出来るのか⁈』と思い調べると、受験資格が改定されていて、自分も受けられると分かりました」

坂口騎手の挑戦に大きな影響を与えた小牧加矢太騎手
坂口騎手の挑戦に大きな影響を与えた小牧加矢太騎手


心強い味方

 「障害騎手になりたい」と、両親や調教師ら、周囲の人に相談したところ、中でも心強い味方になってくれた人がいた。
 「妻が理解してくれて『やれるだけやってみては……』と言ってくれました」
 夫人とは馬術を通して知り合った仲だった。
 「妻自身、乗馬クラブのインストラクターの経験がありました。また、過去に落馬の影響で寝たきりになった事があり、今も後遺症が残っています。ですので騎手の怪我のリスクや大変さをよく理解しています。その上で、そう言ってくれたのは大きな後押しになりました」

乗馬のインストラクターをしていた坂口夫人(右、桃色シャツ)が全面的なサポート態勢をとってくれた(坂口騎手提供写真。騎乗している林忠義氏と横にいる広田龍馬氏は共に五輪代表選手)
乗馬のインストラクターをしていた坂口夫人(右、桃色シャツ)が全面的なサポート態勢をとってくれた(坂口騎手提供写真。騎乗している林忠義氏と横にいる広田龍馬氏は共に五輪代表選手)

 「騎手になりたい」という長年の夢が、自分だけの思いではなくなった。何としても叶えなくてはならない願いになったわけだが、そこに現実の厳しい壁が立ちはだかった。
 「勉強をやっていても、正しい事を出来ているのか?という不安がありました。馬術に関しては実技試験に向け、競馬学校時代の教官に改めて基礎から教わりました。また、体力測定に向け、トレーナーについてもらい、鍛え直しました」
 これらを通常の調教助手としての業務をこなしながら、空き時間に組み込んだ。半年後に最初の受験。不合格だった。
 それでも「騎手になりたい」という気持ちが萎える事はなかった。1年後の再受験へ向け、同じ生活を続けた。楽ではなかったが、刺激になる出来事があった。
 「武豊さんに、担当馬に乗っていただく機会がありました。最初で最後の経験でしたけど、緊張して少ししか言葉をかわせませんでした」

23年、騎手試験へ向けて努力していた時、武豊騎手が担当馬に騎乗してくれる機会に恵まれた。曳いているのが坂口現騎手
23年、騎手試験へ向けて努力していた時、武豊騎手が担当馬に騎乗してくれる機会に恵まれた。曳いているのが坂口現騎手

 改めて騎手の格好良さに触れた坂口を、助けてくれる人がいた。
 「尾形先生が調教助手としての業務内容など、何かと気を使ってくださいました」

尾形和幸調教師
尾形和幸調教師


 また、家庭もバックアップをしてくれた。
 「まだ小さい子供がいるのですが、習い事の送り迎えを妻や妻の両親が全面的にやってくれました」
 夫人の協力態勢はそれだけではなかった。「後から判明した事ですが」と言い、続けた。
 「妻はアスリートフードマイスターの勉強をして、私の体調管理に役立ててくれました。具体的には食生活は勿論ですが、メンタルケアの勉強や、睡眠の質をよくする為に専門家から助言を受けて、実践してくれていました」
 こういったサポートを受け、一次試験に合格すると、二次へ向け、更なる応援をしてくれた。
 「口頭試験の対策や空間認識能力のトレーニングを、妻が手助けしてくれました」
 結果、二次も突破。33歳のオールドルーキージョッキーが誕生した。
 「多くの人に助けられ、合格出来ました。妻や家族からも祝福してもらえ、本当に嬉しかったです」

ついに騎手試験に合格した坂口智康騎手
ついに騎手試験に合格した坂口智康騎手

念願のデビューと、これからの思い

 こうして3月に念願のデビューを果たすと、競馬場でこんな事があったと言う。
 「浜中さんに挨拶をさせていただきました」
 高校時代にサインを貰って以来のコンタクト。騎手になれた事で、今でも大事に保管しているサインの主に会えたのだ。
 5月にはスピアヘッドを駆って初勝利を記録した坂口は、今後に関して次のように語る。
 「コンスタントに騎乗馬を用意していただけているので、信頼を裏切らないように、これから年を重ねても謙虚にやっていきたいです」
 奥様ら応援してくれる沢山の人達のためにも、防げる怪我は防いで、この新たな道を切り拓いていってくれる事を願いたい。

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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