【スピードスケート】町光二郎、20歳。駆け抜けたスケート人生
2018年1月7日、日本学生氷上選手権(インカレ)でのスピードスケート男子1000mのレースを最後に競技人生を終えた。町光二郎、北海道大学工学部2年。中学時代からあこがれていたオリンピック出場の夢は叶わなかったが、たった1人でトップに挑み続けた20歳の胸には、やれることをすべてやり切ったという思いがあふれていた。
■北海道大学2年。ラストレースで自己ベストをマーク
1月7日、長野県軽井沢町の風越公園屋外スケートリンク。前日の男子500mを36秒50の自己ベスト(9位)で滑った町は、この日、スケート人生最後となる1000mのレースを迎えていた。
「500mは最初の100mで動きが悪くてスピードに乗り切れなかったのですが、これまで課題だったアウトスタートのときの2つ目のカーブを、今までで一番きれいに回れました」
満足はしていないが、成長の手応えもつかんで迎えた1000m。アウトスタートの町はインスタートの同走選手に遅れを取りながらも最後まで全力を振り絞り、1分13秒65でフィニッシュした。タイムは帯広柏葉高校3年のときに室内リンクの帯広の森スケートリンクで出した1分13秒67を上回る自己ベスト。14位だった。
「タイムとしては全然満足いくものではないのですが、ベストタイムということで、終わり方としては悪くないと思います」
■帯広柏葉高校時代に急成長
スケートが盛んな北海道十勝地方の芽室町生まれ。5歳でスケートを始めた町が飛躍的に力を伸ばしたのは、高2のときだった。
中学時代も全国上位になったが、父・智之さん(52歳)や母・恵さん(50歳)と相談して選んだのはスケート部のない進学校。ただ、自宅のある芽室町には、学校に本格的な部のない選手が集まって活動する「チーム芽室」があり、バンクーバー五輪男子500m銀メダリストの長島圭一郎や、及川佑(大和ハウス工業)の池田高校時代の恩師である野村昌男監督の指導を受けることができた。
野村監督の教えは的確だった。選手個々の特長を生かす指導法は町の考え方ともうまくマッチした。高校2年から3年にかけて、町は全国優勝を狙える実力をつけた。
■センター試験直後にインターハイ4位、国体優勝
2016年1月18日。2日間にわたって行なわれた「大学入試センター試験」を終えた翌朝、町は芽室町の自宅から岩手県盛岡市に向かった。1月20日から23日まで開催される高校スケート選手権(インターハイ)に出場するためだった。
町は男子500mと1000mで優勝候補の一角と目されており、当然ながら自分自身としても頂点を目指していた。
センター試験は人生を左右する大事なテストだが、町にとってはインターハイも同じように重要な位置づけだった。
試験前日まで普段通りに練習を行ない、1日目の試験後こそ有酸素運動のみにとどめたものの、2日目の試験が終わるとその足でリンクに行って氷に乗った。調子は悪くなく、心配があるとすれば、試験と移動で身体が固まってしまうことだった。
早朝5時に芽室町の自宅を出発し、まずはバスで新千歳空港へ。飛行機で仙台に飛んでから東北新幹線に乗り換え、昼過ぎには岩手県盛岡市に着く予定だ。
ところが、仙台空港が雪のため欠航し、新千歳空港から羽田空港経由での移動に変更を余儀なくされた。東京から新幹線で北に戻る形で盛岡市についたのは、家を出てから12時間以上たってからだった。
「その状況で優勝したら格好良かったんですけどね」
センター試験で座りっぱなしだったことと、想定以上の長時間移動で身体はガチガチ。高校最後のインターハイの成績は500m5位、1000m4位だった。
しかし、町にはすぐにリベンジのチャンスがあった。インターハイから1週間後に再び岩手県盛岡市で行なわれた国体の少年男子500mで見事に優勝したのだ。2位には、「チーム芽室」のスケート仲間である松井大和(やまと)が入った。
松井は現在、日大2年。昨年11月のジャパンカップでは平昌五輪代表の長谷川翼(日本電産サンキョー)らを抑えて優勝している次代の五輪代表候補だ。
■スピードスケートの醍醐味は技術の探求
2016年3月、北海道大学総合理系の試験を受けた町のもとに、合格通知が届いた。
高校時代、オリンピック出場の夢を抱くと同時に、将来の道を模索していた町は、さまざまな人の話を聞いているうちに、世の中には魅力的な職業が数多くあることを知っていった。北大総合理系を選んだのはこれが理由だ。18歳では選択肢を絞り切れなかった。
一方で、スケートへの情熱は変わらなかった。町にとってスケートの魅力は、「他の競技に比べても技術の比重が特に高いこと」にあった。
「どれだけ体力のある人でも、めちゃめちゃうまいヒョロヒョロの人に勝てない。もちろん、突き詰めるには体力や筋力も必要ですが、技術的な部分で探究心をそそられるのがスケートです。(高校レベルまでの)勉強なら、正解が分かる。あるいは正解があるかないかが分かる。試験ならゴールもある。スケートは人それぞれです。人それぞれのゴールを探していく面白さがあります。そこに、学業にはない魅力を感じました」
オリンピックへの思いも当然あった。こうして町は、「北大という環境でトップを目指していこう」と決心した。
一方で、「好きなだけスケートを続けて良い」という両親の言葉に感謝しながら、自分の心の中だけで決めていたこともあった。北大工学部では3年の後期から研究室に配属される。研究は専門的になり、スケートのために多くの時間を費やすことは困難になる。
「大学2年で五輪選考に引っかかるレベルになるかどうか。そこまでなっていなければ辞めようと、最初から自分で期限をつくっていました」
■厳しい練習環境で奮闘
北大体育会の「スケート部」で、中心はアイスホッケー部門だ。フィギュアスケート部門には2014年に入学した鈴木潤(工学部4年)がおり、文字通り孤軍奮闘の活動で2017年フィギュアスケート全日本選手権男子シングルで10位に入る大健闘を見せた。
スピードスケート部門も、町が入学するまで選手は1人もいなかった。大学生活が始まると、覚悟していた通りとはいえ、トレーニング環境は過酷だった。
春から夏にかけては大学のトレーニング施設も使いながら札幌市内で陸上トレーニングを行ない、夏休みは帰省先の実家から帯広の森スケートリンクに通って滑り込んだ。陸トレのメニューは、目的に応じて自分で考えた内容にチーム芽室の野村監督のアドバイスを加えた。
最大の課題としていたのは、いかにして氷に力を伝えるか。目指したのは長島圭一郎やシャニー・デービス(米国)。
「長島さんは氷にブレードを置いた瞬間から体重が乗っている。自分が一番できていないことがそれでした。シャニー・デービスはカーブもストレートもすごいと思って見ていました」
夏休みが終わり、シーズン開幕が近づくと、練習環境は一段と厳しさを増した。札幌市内や近郊には10月に氷に乗れる施設はなく、週末を利用してバスで片道3時間以上かけて実家に帰る日々が続いた。苫小牧(札幌から車で1~1・5時間)にある屋外リンクがオープンするのは11月10日ごろ。この状態で10月下旬の全日本距離別選手権(長野エムウェーブ)に出場するのだから、苦労は並大抵のものではなかっただろう。
それでも常に自分を律し、妥協のない毎日を過ごしているうちに、練習に協力してくれる人との出会いもあった。札幌市内で小中学生を中心に活動しているスケートチーム「VOLTEX」のコーチと知り合い、苫小牧のリンクまで車に同乗させてもらえるようになった。
苫小牧に車で通えるようになったのは大きかった。なぜなら、札幌市内の真駒内屋外スケートリンクは12月中旬以降にならないと滑走できないからだ。しかも、真駒内の製氷は1日1回、朝10時だけ。夕方以降にもなれば氷面はもうザクザクだ。
札幌市は2026年冬季五輪の開催都市として名乗りを上げている。2015年の人口が195万人となっている札幌市は、都市の規模としては十二分といえる格があり、それは誰もが認めるところだ。しかし一方で、地元の冬季競技アスリートがきつい練習環境にさらされているという厳然たる現実がある。立候補するならもう少し改善できないものだろうかというのは、多くのアスリートの本音なのではないだろうか。
■花束を手に
競技者人生最後となった1000mのレースを終えると、かつての選手仲間や子供の頃から顔見知りである同級生の親御さんなどが、「お疲れ様」と声を掛けてくれた。
「大学では1人でもいいという覚悟でやってきたのですが、全国大会でいろいろな選手と競い合うことは、本当に楽しかった。あらためてそう感じました。これだけ何かに打ち込んだこと。それはこれからどんなことをやるときも生きてくると思います」
たった1人でトップに挑み続けた誇りを胸に、さわやかにスケート靴を脱いだ町の手には、チーム芽室時代の先輩である水野正也(日体大)や同級生の松井大和からもらった花束があった。
こみあげるものを抑えることはできなかった。まつげを濡らす涙が太陽の光を反射した。
☆町 光二郎(まち・こうじろう)1998年(平成10年)1月4日、北海道河西郡芽室町生まれの20歳。5、6歳のころから1歳上の兄と一緒にスケートを始め、芽室小3年から地元クラブチームで本格的に取り組む。芽室中、帯広柏葉高校から北海道大学総合理系に進学。現在、北大工学部情報エレクトロニクス学科情報理工学コース2年。身長171cm、体重70kg。あこがれの選手は長島圭一郎、シャニー・デービス。