高価な茶道具を紛失した者に流罪を科した徳川家康とその顛末
昨今、部下が失敗したとき、上司が手厳しく注意しすぎると、ときにパワハラで訴えられることがある。しかし、徳川家康はパワハラどころか、流罪にしてしまった。その顛末を考えることにしよう。
慶長12年(1607)2月、ある事件が起こった(以下『当代記』)。家康は江戸を出発して、相模国中原へ鷹狩に向かい、同地に滞在することになった。
その際、持ち込んだ金の茶道具(釜、天目、水指、柄杓、柄杓置、茶杓)などがことごとく紛失したのである。家康が愛用していたものだけに、高価な品々だったのだろう。紛失の一報を耳にした家康は、きっと激怒したに違いない。
家康は近習の仕業であるとし、彼らの宿所を捜索したが、特段不審な点はなかった。その日の夜、夜番の衆の相場勝七、落合長作、岡部藤十郎の3人について、掛川、田中、沼津の各城に預け置いた。
すると翌朝、藪の中から誰かが落としたとみられる釜の蓋が見つかった。見つけた者には、褒美として金3枚が与えられた。
慶長14年(1609)5月、金の茶道具を紛失した罪により、家康は先の3人を流罪に処した。相場勝七は隠岐島、落合長作は鬼界島(『島津国史』では硫黄島)、岡部藤十郎は伊豆大島である。
なお、『島津国史』では3人が流罪となった時期を慶長13年(1608)7月のこととし、『大日本史料』もこれに従っている。
実は、この話には後日譚がある。『当代記』によると、慶長15年(1610)2月になって、金の茶道具一式が発見された、その後、駿府城で召し抱えられた女房たちが成敗された。
女房たちは、城内でたびたび金子を盗んでおり、その罪状が明らかになったからである。先に盗まれた金の茶道具を盗んだのも、この女房たちではないかといわれている。
家康が流罪にしたのは、大切にした金の茶道具が盗まれ、警備にあたっていた夜番の衆が責任を問われたということになろう。つまり、戦争に負けたわけでもなく、謀反を起こそうとしたわけでもないのだが、業務上の失態により流罪になったといえる。それにしては、極めて重い処罰である。
慶長14年(1609)6月、駿府城の本丸に放火する者がいた。何とか鎮火したものの、下女2人の仕業であるとし火刑に処した。同時に女房衆2人も遠島を仰せ付けられた。
女房衆は、管理責任を問われたものと考えられる(以上『当代記』)。下女の火刑は止むを得ないとしても、女房衆の遠島はやはり重い処罰である。
つまり、家康は業務上の失態があった場合、ときに流罪に処したことが確認できる。当時、流罪は死罪に次ぐ重罪だった。ただ、流罪を科された人々が帰国を果たした否かは不明である。