【戦国こぼれ話】徳川家康は、どうやって伊賀の服部半蔵を家臣に召し抱えたのか?
■猛烈な忍者ブーム
ここ数年ばかり、かなりの忍者ブームである。実は私が子供の頃の40数年前は、テレビアニメ「カムイ伝」「サスケ」などが放映されていた。もう一度視聴したいというオールドファンは、私だけではないだろう。
ところで、忍者といえば、服部半蔵である。テレビや映画でもおなじみだ。なぜ伊賀者の半蔵は、徳川家康の家臣になったのだろうか。
■父・保長のこと
天文11年(1542)、服部半蔵は保長の四男として、三河国伊賀(愛知県岡崎市)に誕生した。父・保長の出身は伊賀国花垣村(三重県伊賀市)で、忍者の頭領を務めていたという。つまり、服部一族は三河の出身ではなく、伊賀が出身地だったのである。
服部家の一族は「千賀地」「百地」「藤林」の3家があり、保長は「千賀地」の流れを汲んでいた。しかし、狭い地域に3家が競合するのは、いかにも効率が悪い。このままではジリ貧である。
やがて、保長は伊賀を離れて上洛し、室町幕府の12代将軍・足利義晴に仕官したが、戦国期の室町幕府は衰退期にあった。事態は好転することはなかったのだ。
■保長が徳川家康に仕えた経緯
保長はこのままでは将来がないと考え、三河の松平清康(家康の祖父)に仕官した。清康が上洛して将軍に謁見したとき、保長を大いに気に入ったからだという。清康の没後は、子の広忠にも仕えた。
広忠が没したあとの永禄年間初頭になって、保長は徳川家康に仕えたといわれている。ただ残念なことに、保長の関係史料は乏しく、生没年は不明である。
■家康に仕えた半蔵
父の没後、半蔵は家康に仕えた。半蔵は、天文11年(1542)に三河で誕生した。半蔵は「半三」とも書く。半蔵という通称は、江戸城の半蔵門にちなんでいた。なお、官途は石見守だったという。
弘治3年(1557)、半蔵は上ノ郷城(愛知県蒲郡市)に夜襲を仕掛け、軍功を挙げたという。家康は半蔵の手柄を褒め称え、持槍を与えたと伝わる(『寛政重修諸家譜』)。半蔵は16歳だった。
その後も半蔵は家康に従い、掛川城攻め、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどに出陣し、大いに軍功を挙げた。半蔵の配下の伊賀者は、非常に優秀だったのである。
■神君伊賀越えの功績
天正10年(1582)6月、本能寺の変で織田信長が横死した。当時、家康は堺(大阪府堺市)にいたが、急遽、本国の三河に戻ることになった。しかし、帰還するには軍勢も乏しく、非常に困難だった。
いわゆる「神君伊賀越え」により、真価を発揮したのが半蔵だった。半蔵は伊賀の土豪と交渉し、無事に家康を三河へと導くことに成功した。これにより、家康は窮地を脱することに成功した。
■多大な恩賞
半蔵は天正18年(1590)の小田原攻めでも大いに軍功を挙げ、家康から遠江に8000石を与えられた。同時に与力30騎、伊賀同心200人を率いることになり、伊賀忍者を統率する役割も任されたのである。
半蔵の生涯は不明な点も多いが、家康に仕えた理由は、すでに父が配下にあったからだった。以後も服部氏は、幕府に仕え続けたのである。