セントライト記念惜敗のアスクビクターモアを巡る裏話
田村家と田中家の関係
「自分にとっては普通のGⅡとは違う意味があります」
そう語るのは田村康仁。19日に中山競馬場で行われたセントライト記念(GⅡ)で2着に惜敗したアスクビクターモア(牡3歳)を管理する調教師だ。
1963年3月生まれだから現在59歳。父は元騎手で元調教師の田村駿仁。オールドファンならモノ言う調教師として覚えておられる方も多いだろう。
田村康仁が独立したのは1997年。それ以前は田中和夫厩舎に所属していた。
「父の駿仁にとって兄貴分だったのが田中和夫先生でした。そんな縁もあり、信頼出来る田中先生に私を預けたのだと思います」
そもそも田中家と田村家の関係は昨日今日作られたモノではなかった。田村駿仁の姉は野平好男騎手(当時)と結婚されているが、この野平元騎手は田中和一郎調教師(当時)が主戦としていた騎手だった。田中和一郎調教師は田中和夫調教師の父である。田村は言う。
「田村駿仁の更に父、私にとって祖父にあたるのが田村仁三郎でした。彼は田中和一郎厩舎の番頭的存在だったと聞いています。つまり、田村家は代々田中家に仕えて来たのです」
ちなみに田村の祖父の仁三郎は第1回桜花賞をソールレディで勝利(1939年)し、田中和一郎はその2年後の1941年にブランドソールで第3回桜花賞を勝っている。
閑話休題。更に両家の縁は時に主従関係を逆にしながら今でも続いているという。
「私の厩舎にいたメジャーエンブレム(NHKマイルCなどGⅠ2勝)の担当者は田中和夫先生の弟の子供でした」
少しでも田中家に恩返しが出来れば、という田村の気持ちが伝わって来る。
セントライト記念に懸ける想い
さて、そこで冒頭の田村の科白である。そのレース名に名を残すセントライトは1941年に、日本競馬史上初めてのクラシック三冠馬となった馬である。そして、同馬を管理していたのが田中和一郎調教師だったのだ。
「私の父はレジェンドテイオーで1986年にセントライト記念を勝っています。でも自分はまだ勝てていません」
誤解を恐れずに言えば、田村にとってのセントライト記念は、下手なGⅠよりも重みのあるレースなのである。
そんなレースに今年はついに1番人気馬を送り込んだ。弥生賞(GⅡ)を制し、日本ダービー(GⅠ)でも3着に善戦したアスクビクターモアだ。
結果、同馬は直線を向くや先頭に立ってみせた。悲願まで残り300メートルを切った。しかし、がっちりマークしていたガイアフォースが外から伸びる。それでも一度は差し返す素振りを見せたアスクビクターモアだったが、最後の最後でガイアフォースも再び差し返す。結果はガイアフォースに軍配が上がり、田村の願いはアタマ差だけ、届かなかった。
「皆から見ればただのGⅡ2着かもしれないし、休み明けだったのだから次へ向けては良い内容と思えたかもしれません」
田村はそう言うと、語調を強めて更に続けた。
「でも、自分にとってはそう簡単に受け止められる結果ではありませんでした。名馬セントライトを記念して創設された競走に1番人気で負けた。それは事実であり、田中家に対して心の底から申し訳ない気持ちでいっぱいになりました」
田村にとって来年以降再びセントライト記念を勝てるような馬を作り上げる事が右輪なら、この敗戦を糧に、アスクビクターモアを必ずGⅠ馬に育てる事が左輪となった。田中家への恩返しのため、田村はこの両輪を回し続け、新たな目標へと突っ走る。田村とアスクビクターモアの今後に更なる注目をしよう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)