92年の日本は2230年の米国? 未来学者ジェームス・データーと読み解く未来(1)
未来学という学問分野がある。"Futures Studies"や"Futurology"と呼ばれ、欧米や韓国、シンガポールの大学、研究機関で専門的に教えられているのに比べ、日本ではそうした機会が少なく、根付いていないのが実情だ。
誕生して半世紀余り。数十年、数百年、あるいはもっと先の社会や技術の在りようを見据えるこの学問は、先行き不透明な今日ほどその意義や需要がある時代は過去になかったのではないだろうか。また、ビッグデータやAI(人工知能)の活用が進む現代にあっては、いまだ起きていない事象を解き明かそうとする学問の性質上、その発展の素地はかつてなく整っているように見受けられる。
そもそも未来学とは何か。日本にあまりなじみのないこの学問について、その道の泰斗である米国の未来学者ジェームス・データー氏の協力のもと、複数回にわたって考えていきたい。
(以下、敬称略)
ジェームス・データー
米国生まれ。ペンシルベニア大学修士号取得(政治学)、アメリカン大学博士号取得(政治学)。
ハワイ大学マノア校名誉教授、同大・元ハワイ未来学研究センター長。元世界未来学連盟会長。学術誌「ワールド・フューチャー・レビュー」編集長を務めたほか、立教大学法学部で6年間教えた経験も持つ。NASAと連携した講義や米食品大手ペプシコのコンサルティング、独物流大手DHL向けレポートなど官民を問わず、未来学を応用した戦略立案に手腕を発揮してきた。
今年8月に発売された最新刊「A Noticer in Time」(Springer Nature)は、データーの約半世紀にわたる未来学の論文や考察をまとめた集大成の一冊。未来学に関する基礎と応用をはじめ、過去にまとめた「1992年の日本に2230年の米国が見える?」(Can We See the US of the Year 2230 in the Japan of 1992?)や韓国を「夢の社会」と形容した「未来の波としての韓国」(Korea as the Wave of a Future: The Emerging Dream Society of Icons and Aesthetic Experience)、2016年大統領選後の米国の行方といった各国の情勢や、不殺生に向けた世界などの論考を、細かな章立てで収録。扱うテーマは政治、経済、司法、交通、通信、教育、観光、地球温暖化などの気候問題、宇宙や宗教と、学際的な未来学らしく多岐にわたる。
今なぜ未来学?
マンガの世界が現実に
日進月歩、人間の1年が7年に相当するイヌの年の取り方にちなんだ「ドッグイヤー」、そうした言い方では足りないほど、AIやビッグデータをはじめとするITの変革が世界中で目まぐるしく起こっている。鉄腕アトムやドラえもんの世界の出来事が、全てではないにしても部分的に、徐々に着実に現実のものとなってきていると感じられる。
ハード面では空飛ぶ車や空飛ぶ人(正確には人を空に飛ばす装置)、ソフト面は念じるだけで動かせる機器、真偽を見分けるのが困難な「ディープフェイク」の技術――と枚挙にいとまがない。枚挙にいとまがない上に、そうした技術が互いに連鎖的に結び付くなどして、新たなテクノロジーや研究成果が次々と増殖していく。かくして世の中には未来を想起させる情報があふれ返る。
人間とロボットの関係で言えば、キャッシュレス決済のためにICチップを体に埋め込む人や、そうした行為を是とする「トランスヒューマン」の思想が一部で広がりを見せる。
(トランスヒューマニズムを掲げる団体のツイッター)
一方でロボットは、少しずつ人間に近づきつつあり、世の中で活躍するロボットの「人口」、つまり台数も増えている。2017年の産業用ロボットの台数は、12年比で60%近い伸びを示した日本もさることながら、中国は6倍と爆発的に増えている。それまで長らく世界最多だった日本は4万5566台で2位、中国が13万7920台でトップとなった。
今後、人間はどんどんサイボーグ化≒ロボット化し、ロボットはどんどん人間化していくとみられる。人間がロボットの特性を持ち、ロボット(の代弁者)が人間(を含む)世界で権利を主張、確立するようになっていくだろう。
半世紀の軌跡
そんな昔からある近未来のSF小説のような話は一旦脇に置くとして、より今日的で現実的な課題として、「ロボットが人間の仕事を奪う」といった論調のセンセーショナルなニュースの見出しや脅威論が話題に上ることも増えてきた。
よく引き合いに出されるのが10~20年後を見据えた「日本の労働人口の 49%が人工知能やロボット等で代替可能に」などである。英オックスフォード大学准教授らと共同研究した野村総合研究所が、2015年に発表した。
未来の変化を捉えようとするこうしたもくろみ、予測は、「予言」めいたものも含め太古の昔からあった。それらを科学的に考察し、体系立てようとする学問の未来学は、この半世紀ほどで築かれてきた。
その揺籃期にあった1960~70年代、日本はむしろこの分野で先頭集団を走っていた。「日本沈没」などのSF小説で知られる小松左京や民俗学者・文化人類学者の梅棹忠夫ら(いずれも故人)によって68年に発足した「日本未来学会」の活動はその一例だ。創設に携わった彼らは未来学者とも呼ばれた。
この未来学会創設の契機は70年大阪府吹田市で開かれた日本万国博覧会、通称「大阪万博」だった。
万博と未来
当時の大阪万博では、未来の生活を表現するための演出が随所に施されていた。「人間洗濯機」として紹介された旧三洋電機による「ウルトラソニック・バス」は「からだをきれいにしてくれるだけではなく、超音波とマッサージボールの働きで美容と健康に役立つ未来の浴槽」として話題となった。
(ウルトラソニック・バス)
子どもも大人も未来に夢見た時代だった。日本が伸び盛りの時代だった。高度経済成長期を経て戦後復興を遂げ、物質的豊かさを渇望していた人々の夢や理想の多くが叶えられ、飽食の時代へと向かった。
3年前に亡くなった米国の未来学者、アルビン・トフラーは世界的ベストセラー「第三の波」で、コンピュータの発達とSFなどの関係をめぐり次のように言っている。40年近く前の書だ。
「事実がフィクションを追い抜き、フィクションのイメージのほうが時代遅れになってしまった」(A・トフラー著、徳岡孝夫訳『第三の波』中公文庫、1982年、p232)
日本も、戦後の貧窮を抜け出して物に満たされ、夢や理想を次々と叶えるうちに、いつしか思い描いていた未来をも追い抜いてしまった、のかもれしれない。
日本は成熟したか
「ある意味では、日本は成熟期に達したということじゃないですか。経済が安定成長期に達したのと同様に、文明としても安定成長に達したということじゃないか」(梅棹忠夫著、小長谷有紀編『梅棹忠夫の「人類の未来」 暗黒のかなたの光明』勉誠出版、2012年、p138)
これは1976年に行われた対談の中での梅棹の発言だ。70年代と言えば、73年の石油ショックにより高度経済成長期に終止符が打たれるなど、成長に陰りが見えた時代でもあった。それでも日本人は豊かさを追い求め、80年代には世界第2位の経済大国に上り詰めていった。
そうした情勢下、時の未来学者らが日本の未来、世界の先行きをどう捉えていたかについては、別稿に譲りたい。
日本の凋落と世界の新潮流
ハーバード大学のエズラ・F・ヴォーゲル名誉教授が1979年に出版した「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の通り隆盛を極めた日本は、1990年代初頭にバブル経済崩壊の憂き目に遭うこととなる。以降、失われた20年とも失われた30年とも言われる長い低迷のトンネルから抜け出せていない。
隆替のただ中にあった日本をよそに、世界では着実に未来学が進展を見ていた。京都市で1970年開催の「第2回国際未来学会」を機にパリで発足した「世界未来学連盟」(World Futures Studies Federation)は実績を積み重ね、国連教育科学文化機関(ユネスコ)との連携も深めている。その後未来学は米国を中心に発展を遂げ、韓国やシンガポールといったアジアの国々でも広まった。
絶頂から転げ落ちた日本は、数十年後の未来のロマンより、明日の衣食住を優先するようになったのかもしれない。
その後の日本が目指すべき方向はどこだろうか。個々人が描きたい未来はどこに――。日本にあるだろうか。
未来学者の見果てぬ夢
日本未来学会の活動は確かに続いている。創立50周年を迎えた2018年、年末には「未来宣言2018」と銘打った2千字近い構想を掲げた。
ただ、その年にあった「記念大会」の成果や今後についてはあまり聞こえてこない。技術予測などで知られた故・牧野昇元三菱総合研究所会長は、1997年に新聞紙面上で次のように指摘していた。
「日本という国は、不思議なことに「未来学」が育たない。アメリカは、ワシントンの国際未来学会に二万五千人のメンバーがおり、年次総会に三千人が集まってくる。日本は、百数十人の会員で、年次総会も会員の参加者が微々たるものだ。」
(1997年6月13日付産経新聞朝刊)
それから20年余り、未来学は中興の時ではないか。
小松や梅棹らが設立の中心メンバーとなった未来学会、その母体となった「未来学研究会」、さらにその前身の「万国博をかんがえる会」は1964年ごろに始まったという。万博の6年ほど前のことだ。
時あたかも、来る大阪万博は今から6年後、2025年に控えている。テーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」だ。半世紀前とは国内事情も国際情勢も様変わりしている中、今あらためて日本の元祖未来学者らが伝えたかった未来の姿を読み解いていく、その意義は少なくないと信じる。
日本未来学会の会員や一部の有識者だけではなく、一人ひとりが自分の将来に生かせる未来学。そんなことをデーターの教えを交えながら伝えていきたい。
(特に注記のない画像は筆者撮影)