90年代前半のパウンド・フォー・パウンドよ、安らかに瞑れ
アメリカ時間、14日(日)の夜、ロス五輪ライト級の金メダリストで、プロ転向後、ライト(は王座を統一)からスーパーウエルターまで4回級を制したパーネル・ウィティカーが亡くなった。55歳という短い生涯だった。
ウィティカーは故郷に近いバージニアビーチ(バージニア州)で交通事故に巻き込まれた。連絡を受け、現場に警官や救急隊員が駆け付けた時、既に手の施しようがない状態だったという。
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私は、一度だけウィティカーを取材したことがある。1997年の秋のことだ。場所はフロリダ州ウエストパームビーチ。
この年の4月12日、ウィティカーはオスカー・デラホーヤにWBCウエルター級タイトルを奪われた。記者席からこのファイトを見詰めたが、どう見てもウィティカーの勝ちだと思えた。が、下された採点は111-115, 110-116, 110-116。ウィティカーは0-3の判定負けを喫したのだ。
デラホーヤにベルトを奪われたウィティカーだったが、ボクシングセンスの点で述べれば、ウィティカーの方が確実に上であった。だが、デラホーヤ戦における彼は、ファンを湧かせるパフォーマンスにばかり気をとられ、あまり攻撃を仕掛けなかった。特に最終ラウンドはゴールデンボーイを挑発しながら、華麗なディフェンスを披露し、パンチを出さずに試合終了のゴングを聞いた。ウィティカーが『戦う』という行為にもっと集中していたなら、あるいは敗者とならずに済んだかもしれない。
もっとも、ウィティカーはそのように感じていないのか、デラホーヤ戦後の再起に向けたスパーリングでも、同じように忍び足でリングを歩いたり、腰を振ったりするパフォーマンスを続けていた。
予定されていたインタビューは、その日のトレーニング終了後であった。ウィティカーをプロモートする『メイン・イベンツ』社にアポイントメントを入れ、当地まで飛んだのだが、挨拶した瞬間にウィティカーから返って来た言葉は「取材? 聞いてネェよ。お断りだね」。何とか粘るとウィティカーは、「ランチを食べに行くからついてこい」とぶっきらぼうに言い、スポーツバーに車を走らせた。私が追いかけると、ウィティカーは愛人と思しき女性を横に座らせ、ビールをガブ飲みし始めた。そして言った。
「デラホーヤ戦? ありゃあWBCとボブ・アラムが組んでオレからベルトを奪ったんだ。今さら何も言うこたぁねえよ」
口の周りについた泡を拭おうともせず、ウィティカーはまくしたてた。
「多分、野郎はオレに負けたってことを分かっているさ。もし、リ・マッチが現実になれば嬉しいけど、特にデラホーヤに拘っちゃいない。オレはオリンピックで金メダル、プロになってからも6つのベルトを巻いた男なんだ。十分富も名声も手に入れてる。その上で自分を完成させるのが今後のプランだな」
左耳につけた大きなダイヤのピアスの位置を正すと、ウィティカーはさらにビールを注文した。才能には恵まれているが、真摯な姿勢でボクシングに取り組んでいるようにはとても思えなかった。
「ボクシングってのは、テクニック、スピード、パワー、色々なものをトータルしてひとつの形が出来上がるものなんだ。だから、パーネル・ウィティカーそのものを完成させるのがオレの目標さ」
ウィティカーが不可解な判定に泣いたのは、デラホーヤ戦が初めてではない。フランスまで乗り込んでの世界タイトル初挑戦。ホセ・ルイス・ラミレス戦でも不可解な判定負けを食らった。メキシコの英雄フリオ・セサール・チャベスを相手にしたWBC世界ウエルター級タイトル防衛戦でも、圧倒的に試合を優位に進めながら、引き分けにされている。
ウィティカーがビールにばかり集中しているため、結局20分ほどしかインタビューできなかった。類稀なディフェンス力をいかに身に付けたのか、などという質問は遮られた。
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引退後、ウィティカーはコカイン所持で手錠を掛けられ、有罪判決を受けた。この男もまた、晩節を汚すのかーーーーと感じていたが、突如として死がやって来た。ウィティカーの車をクラッシュさせた加害者はアルコール、ドラッグ共に反応無しだという。
名ボクサーでありながら不運な判定に泣き、こんな事故で人生の最期を迎えるとは、ウィティカーは<悲劇>と形容すべき男なのか。
私の胸にはウエストパームビーチでの苦い思い出が蘇ったが、今はただ、ウィティカーの冥福を祈りたい。