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三浦義村の次男・泰村が承久の乱で北条泰時の軍に加わりたいといった深い訳

濱田浩一郎歴史家・作家

承久3年(1221)6月7日、北条泰時・北条時房が率いる東海道軍、そして東海道軍が、野上・垂井(現在の岐阜県不破郡垂井町)の「両宿」に陣を置きました。今後、官軍と如何に対するかという軍議がそこで行われたのです。

その席で、相模国の有力御家人・三浦義村が次のような見解を表明します。それは「北陸道軍の大将軍(北条朝時)が上洛する前に、我らの軍勢を都の東へ進軍させるのが宜しいでしょう。勢多へは、相州(時房)。手上へは城介入道(安達景盛)と武田五郎(信光)。宇治へは武州(泰時)。芋洗は、毛利入道(季光)。淀の渡しへは、結城左衛門尉(朝光)とこの義村が向かうのは如何」と。

三浦義村の提案を、北条泰時は了承します。また、他の者も、誰も義村の意見に異議を挟みませんでした。三浦泰村(義村の次男)は、父・義村に従い、淀に進軍するべきなのですが、北条泰時と同行したいということで、泰時の陣に加わります。

これは別に、泰村が父を嫌っていたからという訳ではありません。三浦泰村と北条泰時との関係に理由を求めるべきでしょう。泰時は、泰村が元服する際の烏帽子親でありました。

更には、泰村の「泰」の字は、泰時の一字(泰)を与えられたものです(偏諱を賜う)。このようなことから、泰村は北条泰時の陣に加わりたいと主張したのでしょう。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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