中尊寺金色堂を建立し、源義経を匿った奥州藤原氏とは、どのような一族だったのか
過日、岩手県平泉町の中尊寺の国宝・金色堂の建立900年を記念し、特別展示「金色堂の信仰と継承」が宝物館「讃衡蔵(さんこうぞう)」で開幕するとの報道があった。こちら。
中尊寺金色堂を建立したのは、奥州藤原氏の初代・藤原清衡である。奥州藤原氏とはいかなる一族なのか、考えることにしよう。
奥州藤原氏は藤原秀郷の子孫といわれ、その祖の亘理恒清は安倍頼時の娘を娶り、前九年の役(1051~62)で安倍氏に味方して戦った。しかし、恒清は戦死したので、子の清衡は遺児となり、母の再婚相手の清原武則のもとで養育された。
後三年の役(1083~87)がはじまると、清衡は源義家とともに戦い、独立することに成功した。11世紀末頃、清衡は奥州平泉(岩手県平泉町)に基盤を置いたのである。
清衡は陸奥・出羽の2ヵ国に影響力を持ち、天皇家や摂関家との関係を強化した。天治元年(1124)、清衡は中尊寺金色堂を建立した。金色堂には、清衡ら藤原氏四代の遺骸が安置されている。
清衡の子の基衡は出羽国押領使となり、また毛越寺の再建にも力を尽くし、京都文化を積極的に受け入れた。藤原氏の経済基盤は、日本有数の産出量を誇った金にあったという。12世紀中後半、京都では平家がわが世の春を謳歌していたが、奥州藤原氏は平家に対抗しうる勢力だった。
基衡の子・秀衡は、陸奥・出羽領国の押領使に任じられた。嘉応2年(1170)、秀衡は鎮守府将軍、従五位下に叙位任官された。鎮守府将軍とは鎮守府の長官のことで、陸奥国司とともに蝦夷の支配を担当した。
養和元年(1181)、秀衡は陸奥守、従五位上に叙位任官された。平家は秀衡を厚遇することで、源頼朝を牽制しようと考えたのだ。秀衡の東北における威勢は、平家も決して無視できなかったのである。
秀衡は、源義経の恩人でもあった。承安4年(1174)、義経は自ら元服を果たすと、平泉で秀衡により庇護された。治承4年(1180)8月、頼朝が平家に挙兵すると、義経は秀衡の反対を押し切って、頼朝のもとに馳せ参じた。
しかし、平家の滅亡後、義経は頼朝と対立し、文治元年(1185)11月に都落ちした。翌年11月、義経は平泉に入り、再び秀衡に庇護されることになった。秀衡は頼朝との関係悪化を懸念したが、あえて義経を受け入れたという。
秀衡が義経を受け入れたので、さすがの頼朝も容易に手出しができなかった。しかし、秀衡は文治3年(1187)10月に病で亡くなった。あとを継いだのは、子の泰衡だった。秀衡の死は、頼朝の好機となった。
文治5年(1189)閏4月、義経は泰衡に急襲され、衣川館で自害して果てた。その泰衡も同年9月に頼朝に攻められ、殺害された。こうして奥州藤原氏は、滅亡したのである。