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追悼 ベスト・レフェリー

林壮一ノンフィクション作家/ジェイ・ビー・シー(株)広報部所属
(写真:ロイター/アフロ)

 現地時間12月6日、ボクシング界きっての名レフェリーだったミルズ・レインが亡くなった。享年85。

 世界タイトルマッチの前に、自らが裁く両ファイターに対し「チャンピオン、何か質問はあるか?」「挑戦者はどうだ?」と問い掛けた後、「Let's get it on!!」と叫ぶ姿をご記憶のオールドファンも多いだろう。

 1937年11月12日にジョージア州サバンナで生まれたレインは、アメリカ海兵隊を経てネバダ州立大学リノ校に入学する。専攻はビジネス。海兵隊のボクシングチームでも、大学でも優秀なウエルター級選手として名を馳せ、ローマ五輪代表選考会に出場する。準決勝で敗れたものの、もし五輪選手となっていれば、モハメド・アリと共に星条旗を背負ってイタリアに乗り込んでいた。

 その後、大学生活と並行してプロボクサーとなり、10戦1敗。デビュー戦こそ落としたが、9連勝したサウスポーのファイターだった。

 やがて法律を学び、弁護士資格を得、リノで裁判官として活躍しながらレフェリーとして数々のビッグマッチを任された。

写真:ロイター/アフロ

 マイク・タイソンがイベンダー・ホリフィールドの耳を食いちぎったあの一戦も、彼が大役を担った。

 当時私は、彼の通った大学でジャーナリズムを学んでおり、裁判所まで押しかけて、耳咬み事件についてインタビューさせてもらった。

 「タイソンの失格負けは当然。しかし、彼がきちんと反省するのならリングに復帰させる道を用意してやらないと」と述べた。当時、レインは59歳。

 裁判官としてのレインの姿も何度か法廷で取材させてもらったが、いつも眼光鋭く、凛としていた。

 1998年11月、トーマス・ハーンズvs.ジェイ・スナイダー戦もレインが担当した。リノからデトロイトまでのフライト、そして宿泊したホテルが私と同じだった。

 「今でもジムワークとロードワークは欠かさないんだ。でないと、いい仕事が出来ないからね。ジャッジ(裁判官)としても、レフェリーとしても」と語っていた。

 ホテルに着くなり、グレーのスウェットの上下に着替え、赤いニット帽を被るとデトロイトのダウンタウンを走った。

写真:ロイター/アフロ

 2002年3月に脳卒中で倒れてからは会話が困難となり、闘病していると聞いていたが、ついに天に召された。

 レインが名レフェリーとしてリングに上がっていた頃のアメリカは、ボクシング界が華やかだった。毎月、名チャンピオンの試合があった。レインの死は寂しい。

 ボクシングに大きな貢献をしたレインー--ご冥福をお祈りいたします。

ノンフィクション作家/ジェイ・ビー・シー(株)広報部所属

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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