武田信虎が子の武田信玄に追放された意外な理由
大河ドラマ「どうする家康」では、阿部寛さんが演じる武田信玄が注目されている。ところで、信玄がなぜ父の信虎を追放したのか、考えてみることにしよう。
天文10年(1541)6月、武田信虎は子の信玄から追放された。追放された理由の一つとして、信虎があまりに悪逆無道だったとの説があるが、この説は今となっては成り立ちがたいとされている。ほかには、どのような説があるのか。
ほかには、①今川義元と信玄による共謀、②信虎と信玄の合意に基づき義元を謀ろうとした、③信虎のワンマン体制に反対し、信玄と家臣が結託して謀反を起こした、④対外政策をめぐって、信虎と家臣団が対立した、という説がある。
①説は信虎が信玄を嫌っており、次男の信繁に家督を譲ろうとしたので、信玄は廃嫡の危機にあったという。親子が不和だったということになろう。『甲陽軍鑑』による説だが、現実味が乏しい。
②説は『甲斐国志』による説だが、受け入れがたい点が多々ある。義元を陥れるとはいえ、あまりにも手の込んだ考え方である。この説は一種の陰謀説であり、単なる創作といわざるを得ない。
③④の説は、現実性があるように思う。信虎配下の国人は、自立性が高い存在だった。信虎の手腕に陰りが見えたら、離反する可能性があった。信虎の追放後は、ふさわしい人物を武田家の家督に擁立するのだ。
戦国時代において、大名家中における家臣団の意向は、かなり尊重された。一般的にいえば、新しい当主を決定するときは、家臣の合意を必要としたのである。仮に、家臣の意向に反して、違う当主が擁立されると、家中が二分して対立することもあった。
当時、信虎は領土を拡大する志向が強く、国人たちは戦争に動員された。出陣に掛かる費用は自弁であり、大きな負担となった。また、信虎による棟別銭(家屋にかかる税金)の負担も、国人にとって大きな不満だった。
信玄は単純に父が憎いという理由だけで、追放したとは考えられない。今川氏と姻戚関係にあるとはいえ、結託するのも現実的ではない。信虎の追放劇は、信玄の考えだけで決められない重大な問題だった。
結局、信玄は信虎に不満を持つ国人・家臣らの意向を汲み取らざるを得ず、父を追放したのではないだろうか。信玄は信虎を追放することで、国人・家臣の支持を得た。結果、武田家中は連帯感を強め、以後の発展につながったのである。