Yahoo!ニュース

日米通算200勝を達成したダルビッシュ有の本当の凄さとは

横尾弘一野球ジャーナリスト
日米通算200勝を達成したダルビッシュ有は、エースの条件を備えていた。(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

 現地時間5月12日のロサンゼルス・ドジャース戦で日米通算199勝目を挙げていたダルビッシュ有(サンディエゴ・パドレス)は、悪天候で中止となった前日からスライドした19日のアトランタ・ブレーブス戦に先発。7回を2安打無失点の好投で今季4つ目の白星をつかみ、日米通算200勝に到達した。

 北海道日本ハム時代にバッテリーを組み、「実力からしたら200勝は遅かった」と辛口の祝辞を贈ったオリックスの中嶋 聡監督をはじめ、どの世代の誰もが認める潜在能力の高さ。また、昨春のワールド・ベースボール・クラシックで若手が必死に吸収しようとした分析力や探求心。そして、達成直後のインタビューで「日本全体が自分を優しく育ててくださった。その感謝は忘れずにやっている」という直向きな姿勢。それらを土台に偉業を成し遂げたが、実はルーキーだった2005年に、すでにその片鱗は見せていたという。

1年目に先発した14試合のうち10試合は……

 東北高2年春から4季連続で甲子園の土を踏み、2年夏は準優勝、3年春の一回戦では熊本工高を相手にノーヒットノーランを達成する。まだスレンダーだったが、身長195cmから投げ込むボールの質も高く、ダルビッシュは社会人・シダックスの野間口貴彦、明治大の一場靖弘らとともにドラフトの目玉と言われ、北海道日本ハムが1位指名して入団する。

 ただ、冬場のトレーニングで右ヒザを痛めたこともあり、1年目の春季キャンプは二軍でスタートする。それで調整が遅れたが、5月になってイースタン・リーグで実戦のマウンドを経験すると、6月には一軍登録。この年からセ・パ交流戦が導入されており、15日の広島戦に先発で初登板を果たす。

 立ち上がりから18歳とは思えぬ落ち着いたマウンドさばきのダルビッシュは、8回まで7安打されながら無失点の好投。9回に新井貴浩と野村謙二郎に連続本塁打を許して降板したが、8回2失点で初勝利を手にした。その後も先発を任されて14試合に登板したものの、5勝5敗、防御率3.53。期待された新人王は千葉ロッテの久保康友に奪われてしまう。ドラフトの際には「松坂大輔以来の超高校級」と評されただけに、1年目の結果には賛否があった。そんな中で、前年まで大阪近鉄で監督を務めていた梨田昌孝は「ほどなくエースになれる」という見方を示す。そして、その根拠をこう語った。

「ダルビッシュが投げ合ったのは、松坂をはじめエース級ばかりでしょう。そんな実力者を相手に一歩も引かなかったし、投げ合いながら相手のいい部分を分析しているようにも見えた。体格の大きさやボールの凄さばかりに目がいくけど、ダルビッシュの最大の長所はクレバーさ。プロの水にも慣れた来季は2ケタ勝ち、すぐにエースになっていくと思う」

 確かに、ダルビッシュは2試合目で松坂に投げ勝ち、そこから久保、この年に最多勝利と最優秀防御率の杉内俊哉(福岡ソフトバンク)、12勝を挙げた小林宏之(千葉ロッテ)と投げ合って勝敗はつかず。その後も、吉井理人(オリックス)や西口文也(西武)のベテランとも渡り合い、14試合中10試合でエース級と投げ合っていた。

 梨田がよく口にしていた「プロで勝ち続けた人はいない。勝ちながら負けながら、いかに経験を力に換えていけるか」をダルビッシュは見事に実践し、2年目からは2ケタ勝利を続け、北海道日本ハムのみならず日本を代表するエースとしてファンを魅了している。8月16日には38歳を迎えるが、ダルビッシュのパフォーマンスはいい意味で年齢を感じさせず、まだ進化しそうな印象さえあるのが楽しみだ。

野球ジャーナリスト

1965年、東京生まれ。立教大学卒業後、出版社勤務を経て、99年よりフリーランスに。社会人野球情報誌『グランドスラム』で日本代表や国際大会の取材を続けるほか、数多くの野球関連媒体での執筆活動および媒体の発行に携わる。“野球とともに生きる”がモットー。著書に、『落合戦記』『四番、ピッチャー、背番号1』『都市対抗野球に明日はあるか』『第1回選択希望選手』(すべてダイヤモンド社刊)など。

横尾弘一の最近の記事