【京都府向日市・長岡京市】乙訓から京都まで一直線で繋がる物集女街道が近い 電動自転車ですいすい!
長岡京の市街から京都市右京区の車折神社まで行く用事が週に幾日かできたのですが、公共交通機関では、阪急長岡天神駅から西院まで出て、西院からバスか嵐電に乗り換えて、車折神社まで行くのが一般的です。しかし、交通費もばかにならないし、大回りなので時間もかかります。
車の免許も無いし、どうしようかと地図を見ていると、京都府道67号線、昔の物集女街道で一直線に繋がっていることを発見しました。しかし、坂が多くて急そうです。そうだ、コロナ禍で売り上げも急上昇中の電動自転車を購入しよう。とうことで、後のメンテナンスなどきめ細かいサービスが評判のセブン商店街のサイクルショップ ポッポ長岡店で1台購入。
2022年6月1日、早速に走ってみました。確かに坂が多くて大変でしたが、電動自転車のおかげですいすい行け、長岡天神から車折神社まで40分でした。この辺りは小丘が多い、途中に「物集女車塚古墳」がありました。古墳時代後期(6世紀中頃)の前方後円墳です。淳和天皇(840年没)の棺を運んだ車を納めた地という伝承が、名の由来とされています。
埋葬施設は「畿内型」の「横穴式石室」と呼ばれ、形がきれいに残っている石室は希少で、コロナ禍前は、毎年、内部が一般公開されていました。「石室の構造や副葬品(馬具、ガラス製の装飾品、金属製の冠の断片、武器、土器等)から、埋葬者は6世紀前半に弟国宮をつくった継体大王と所縁が深い人物と考えられています。」(京都府向日市歴史観光サイトより)
中世に物集女(もづめ)城を築き、室町時代にあった天龍寺領物集女庄の代官をつとめ、年貢の納入を管轄していた物集女氏は秦氏の一族と云われます。鶏冠井、神足氏らと並んで十五世紀後半の西岡にあった惣国の代表者だったようです。
戦国末期になって、物集女忠重(宗入)は、三好三人衆を倒した信長の配下として勝龍寺城に入った細川藤孝、その後、将軍足利義昭が追放される中、幕府の被官としての誇りから、最後まで細川藤孝に反抗をしました。しかし、天正三年(1575 )の秋、勝龍寺城下において藤孝の家臣松井氏に謀殺されてしまいました。いわゆる勝竜寺城事変です。
物集女街道もまた歴史街道でした。
物集女車塚古墳 (外部リンク) 京都府向日市物集女町南条