【河内長野市】クリスマスに考える奥河内の隠れキリシタン伝説。今も残っている流谷の十三仏との関係とは。
今日12月25日は、だれもが知っているクリスマスですね。日本では年越しを1週間後に控えた前夜祭のようになっていますが、本当の意味はキリスト教のイエス・キリストの誕生を祝う日です。
余談ですが、クリスマスは本来、日本のように25日に終わるのではなく、1月6日に東方の三博士の来訪時を記念する公現祭(顕現日)の日までが、降誕節と言われる期間。なので、6日までクリスマスツリーなどは飾ったままとしています。
欧米のキリスト教国では新年のお祝いとかねて、この日まで引き続きクリスマスモードなわけです。
さて、そんなクリスマスを前に、以前伝え聞いた聞いたある情報を思い出しました。それは奥河内(河内長野)にかつて存在したという隠れキリシタンの伝承です。
河内長野教会など、現在存在しているキリスト教会は、明治時代以降による宣教の結果、建築されたものです。江戸時代は鎖国と共にキリスト教が禁止されていたのは、歴史の教科書でも登場するほど有名な話ですね。
とはいえ長崎では隠れ(潜伏)キリシタンと呼ばれる人たちが、キリストの教えをずっと守ったことが知られています。しかし、河内長野にも長崎のような隠れキリシタンの伝承が残っていることを知りました。
その伝承とは、戦国時代の終わりごろに、楠木正成が築城したとされる烏帽子形城を支配した領主の中にキリシタンがいて、その結果、支配地域の人たちがキリシタンとなっていたというのです。それは当時のイエズス会の年報にも記されていたそうです。
烏帽子形城は、戦国時代に河内国の守護大名だった畠山氏の跡目争いや織田信長の前に畿内を支配した三好長慶(みよし ながよし)との間で、頻繁に攻防戦が行われたとのこと。
城はいったん三好の支配になったそうですが、長慶の死後に勢力を伸ばした織田信長により、三好一族が追い出され、河内国が信長の物になります。ここで烏帽子形城は信長の命により旧畠山家の家臣だった武将の伊地知文太夫らにより支配されます。
この伊地知文太夫が洗礼を受けて、伊地知パウロ文太夫(パウロボアンダイン)となったことが、この地にキリシタンが増えるきっかけとなりました。記録によれば領内にあった家を数軒寄進して仮の小聖堂(教会)を建てたそうです。
また信長の時代に日本に来ていて「日本史」を執筆したルイス・フロイスが、烏帽子形のキリシタンを訪ねたという記録もあるそうです。
その後豊臣秀吉の時代になり、領主が追い出され、それ以降烏帽子形城のキリシタンに関する情報が無くなりました。そのため烏帽子形城とその周辺でキリシタンが活躍したのは、1574(天正2)年からの10年間ほどまでなのだそうです。
ただし、密かに信仰を続けていた隠れキリシタンの足跡がいくつ残っているそうです。
その中のひとつに、流谷集落にある十三仏があります。
そこでいったいどういうものか見てみようと、先日南海天見駅で下車して流谷に行ってみました。
ちなみに流谷集落の中にある十三仏には画像のような表記が残っているそうで、左下に「テウロ」「シタニ」という片仮名があってその下に人の名前があります。
確かにテウロ、シタニという名前が洗礼名(クリスチャンネーム)のようですね。
さて天見駅から流谷八幡を越えて西方向に歩き流谷集落まで来ました。
流谷集落には、蠟梅の里や葛城第十六番之経塚などがありますが、十三仏はその手前で曲がるところがあります。
曲がったところを上がっていくと、一時避難場所とありますが、そこに十三仏や流谷薬師堂があります。
こちらが十三仏です。大きな一枚の石に、浮彫のような物が見えます。13体の仏さまということでしょうか?
説明によれば、これは河内長野市指定文化財の石造り流谷十三仏像とあります。所有は流谷自治会で、1988(昭和63)年4月21日に指定されました。
像は花崗岩が使われており、高さ88cm、幅35cm、厚さ7cmの舟型板碑です。正面をみると13の仏像が浮き彫りに刻まれています。
ちなみに十三仏とは仏教で初七日から33回忌までの13回の追善供養の祭に本尊となる13体の仏像です。
生前に自らの死後の冥福を祈る逆修(ぎゃくしゅ)供養というのがあり、その集まりである逆修講の人たちにより建立される物だそうです。
こちらにいちばん上に1体の仏像が浮彫されてあり、その下に12の仏像があります。説明では次の仏像がこのように配列しているそうです。
不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩(せいしぼさつ)、阿弥陀如来(弥陀:みだ)、阿閦如来(あしゅくにょらい)、大日如来、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を表しているそうです。
しかし実際には、これはイエス・キリストと直弟子の十二使徒を意味しているのではと解釈されています。
十二使徒とはペテロ (シモン)、ゼベダイの子ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ (ユダ)、熱心党のシモン、イスカリオテのユダです。
浮彫は仏像と言いますが、見かたによっては人物にも見えるので、言われてみれば確かにそんな気がします。さらにいちばん上にいる浮彫は、ほかの12の浮彫と比べて別格な存在とも見えますね。
改めて十三仏の石造側面の拓本を見ると、1653(承応2)年十月十五日に記したものだとわかります。その下には信者20名が陰刻されているそうです。
風化や損傷があるので、判読の難しいところはありますが「シタニ」「テウロ」「浄金文」の名が刻まれいるので、これはキリシタンを意味することではないかと思われます。
ちなみに「浄金」はヨハキンと読み、当時の洗礼名として多く用いられていたそうです。
江戸幕府による禁教令は、1612年(慶長17)と翌1613年に発令しました。その後大坂の陣が終わった元和年間(1615~24)から隠れキリシタンの発見と棄教が積極的に行われるようになったそうです。
その弾圧は過酷なもので、記録によれば1633(寛永10)年の拷問によって、管区長代理であったポルトガル人のクリストヴァン・フェレイラまでが棄教してしまうほどでした。
このような時代背景から、仏教徒を装った隠れキリシタンが十三仏を作ったと推測されているようです。
つまり江戸時代の流谷(ナガレダニ)は、隠れキリシタンの集落ではなかったのかと推察できるそうです。現在でも流谷は天見地区に囲まれた隠れた谷(画像のピンク色の部分)という印象なので、言われてみればそんな気がしないでもありません。
また、洗礼名らしきものが刻まれている十三仏石碑は流谷以外に例がないそうで、非常に貴重なものと言うことで市の指定文化財となりました。
発見時には大きく3つに割れていたそうで、一部が欠損した状態だったそうです。修復が行われて現在の姿となっています。
十三仏が安置されている小堂の目の前には、流谷の集会所(月輪寺跡)があります。
同じ敷地内にもうひとつお堂があります。これは流谷薬師堂のようです。情報が無いので明確にはわかりませんが、元々月輪寺という寺があったそうなので、その寺に伝わる薬師如来を祀っているのでしょうか?
いずれにせよ流谷の人たちによって代々伝えられてきた貴重なものであることは間違いありません。
ということで、流谷の十三仏を見てきました。戦国時代にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルが、山口での布教中だった1552年12月に降誕祭を行ったそうで、それが日本で初めて行われたクリスマスなのだそうです。
ということは烏帽子形のキリシタンも、恐らく同じようにクリスマスを祝っていたのでしょう。その後も続いて、流谷で隠れキリシタンがクリスマスを行っていた可能性もあります。
流谷の隠れキリシタンがその後どうなったのか定かではありませんが、信仰の足跡のようなものが河内長野の山奥にあったことを実際に見ると、歴史好きとしてはなんとなく嬉しい気がしました。
クリスマスの今日だからこそ、一見関係なさそうに感じる河内長野の文化財と隠れキリシタンの歴史を考えるのも面白いですね。
流谷十三石仏
住所:大阪府河内長野市流谷
アクセス:南海天見駅から徒歩24分
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