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総裁選「看板変更」で迫る総選挙に国民は自民を信任するか。過去7回成功。失敗した2回も考察

坂東太郎十文字学園女子大学非常勤講師
新時代の扉があいて裏金問題も「決着」なのか(写真:ロイター/アフロ)

 自民党総裁選が12日に告示されます。裏金問題など一連の自民党の不祥事の「責任を取る」と岸田文雄首相(兼総裁)不出馬に基づき現職抜きの選出となったのです。

 背景には政治資金問題を中心に自民党の支持率も低下し「岸田首相では次期総選挙を戦えない」という声があふれていました。言い換えると今回は選挙に勝てる看板選びの色濃い総裁選です。

 前政権とはガラッと異なるカラーの持ち主へ看板変更して支持率を急上昇させて総選挙を勝ち抜く「振り子の原理」は自民党のお家芸。過去の例を見てもほとんどが成功しています。さて今回の「看板変更」で国民は自民を今までのように「許す」でしょうか。数少ない失敗例も含めて考察します。(文中敬称略)

「振り子の原理」が発明された初の総裁選

 1960年6月、岸信介首相が日米新安保条約成立と引き換えに辞任したのにともなって総裁選が実施されて池田勇人が決選投票で新総裁へ選出されました。

 後に「政治の岸から経済の池田へ」と「振り子の原理」の代表例のごとく語られるも、実態は結果的に「振り子の原理」が発明された出来事だったのです。

 安保反対の盛り上がり、いわゆる「60年安保闘争」は戦前も含め、一部(学生や労組など)に止まらず国民的な広がりをみせた珍しい現象で、他に第1次護憲運動(1913年)くらいしか見当たりません。

 近年、再評価も進む岸政権も当時の評判は最悪で子どもまで「岸=悪人」と浸透していたほど。でも後継の池田は岸内閣で重要閣僚を歴任し、反対派への強硬な手段を支持していた「岸側」で岸の支持をも受けて総裁の座を得ていたのです。

成功例

①1960年 政治の岸信介→経済の池田勇人

 「振り子」に転じた、というか演じたのは池田が首相へ就任してから。安保闘争の勢いそのままに解散を求める野党の誘いに乗らず、「寛容と忍耐」というキャッチフレーズで民心を落ち着かせ、就任以前から温めていた「所得倍増計画」を9月に発表。満を持して10月に衆議院を解散して11月の総選挙で自民を圧勝へ導きました。

 安保闘争最大の悲劇とされる樺美智子さん死亡が6月。「この時点で選挙をやれば自民は全員討ち死にだ」と悲観されてわずか5カ月でみごとイメージ払拭に成功したのです。

②1972年 エリート佐藤栄作→庶民的な田中角栄

 佐藤栄作長期政権終了にともなう総裁選。佐藤は兄の岸の後継者でもある福田赳夫を次に望んでいました。他方で佐藤派の多くが田中角栄によって事実上簒奪されて田中派が結成されます。結果は角福決選投票で角栄が新総裁へ選出。

 誰もが認める実力者ながら、さすがに飽きが隠せない佐藤は東大から官僚トップの事務次官まで上り詰め、当時の吉田茂首相が非議員のまま内閣官房長官へ抜てきされた絵に描いたようなエリート。その後継が中学卒の叩き上げで庶民的な角栄とあって内閣支持率は軒並み7割以上と沸騰。11月解散後の12月の総選挙では前回を下回る議席数ながら安定多数を確保しました。

③1990年 金銭・女性スキャンダルまみれ→さわやか海部俊樹

 自民党は中曽根康弘政権の86年、衆参同日選挙で圧勝した後に竹下登へ総理総裁を譲るも折からのリクルート事件および消費税導入が逆風となって89年に辞任。竹下の裁定で選ばれた宇野宗佑が今度は女性スキャンダルで火だるまのまま突入した参院選で歴史的敗北を喫して辞任。「政治とカネ」と「女性スキャンダル」どちらにも無縁なさわやかさが売りの海部俊樹が8月の総裁選で選出されたのです。

 この時点で衆議院の任期満了(4年)が1年弱。「リクルート印」の議員を外した組閣を断行した後、満を持して翌90年1月解散2月総選挙を打ちます。野党は消費税撤回などを争点化するもかき消され自民圧勝となったのです。

④1995年 政権転落の後始末→「龍様」橋本龍太郎

 93年総選挙で過半数を割り込み、細川護熙非自民連立政権の誕生で初めて野に追われた自民党は宿敵であった日本社会党を抱き込んで村山富市同党委員長を首班とする「自社さ政権」(「さ」は新党さきがけ)という奇策で94年に政権復帰。

 とはいえ両党の議席差から村山の次は自民党総裁が確実視されていました。95年の総裁選は、いわばその後釜選びで、「龍様」のあだ名で女性人気が高く、かつ政策通でもあった切り札、橋本龍太郎を選出したのです。翌96年1月の村山退陣にともなって首相となりました。内閣支持率も約6割と好調。同年9月解散、10月総選挙。自民党は過半数割れながら大敗して政権を失った前回より28議席増。「自社さ」合計で過半数を得て窮地をしのいだのです。

2001年 支持率1ケタ森喜朗→「自民党をぶっ壊す」小泉純一郎

 森喜朗首相が3月、総裁選を繰り上げ実施すると実質的な退陣表明。相次ぐ失言と不手際で内閣支持率が1ケタ台を記録するなど超低空飛行が続いて、同年7月の参院選で「戦えない」との声が党内に充満した結果といえます。

 総裁選は4月に行われました。下馬評では橋本龍太郎元首相の再登板が確実視されたものの過去2回挑戦して敗北した小泉俊一郎が破天荒な選挙戦を展開してまさかの選出を手にしたのです。

 いうまでもなく総裁選の票は党員と国会議員票がほとんど。大半の国民には無関係なのに小泉は各地で街頭演説を展開して「自民党をぶっ壊す」と啖呵を切ります。これが大受けで、最初は「投票権を持たない者を相手にして何の意味があるのだ」と冷淡だった国会議員も次第に腰を浮かせ出したのです。

 この「小泉劇場」は以後の総裁選にも大きな影響を与えました。街頭演説は当たり前となって、あたかも総裁選が国民を対象としているかに錯覚させるショーと変えたから。

 組閣直後の内閣支持率は高い調査で9割近く。勢いそのままに挑んだ7月の参院選は前回の44議席、前々回の45議席を大きく上回る64議席を得たのです。

⑥2012年 民主党政権→「再チャレンジ」安倍晋三

 民主党政権下の9月に実施された総裁選で安倍晋三が選出。安倍は一度総理総裁を経験していて自民党初の再登板となりました。

 11月、野党総裁として野田佳彦首相(民主党)との党首討論に挑み、首相から「16日に解散をしてもよいと思っている」と具体的な日時まで言わせたのは大金星でした。安倍自身が「約束ですね。よろしいですね。よろしいですね」と何度も念を押すほど驚きの展開。

 というのも与党(大半が自民党中心の政権)が総選挙で有利に運べる最大の理由が解散日時を首相が決められるから。それを言わせてしまったのです

12月の総選挙で自民党は圧勝して安倍総裁が2度目の首相に就任。長期政権を築きます。最初の政権で唱えた「再チャレンジ」そのものです。

⑦2021年 タカ派長期政権→ハト派の岸田文雄

 総裁選は9月。前回総選挙の17年10月からほぼ4年経っていて、任期満了間近で実施に至りました。安倍長期政権の後を襲った菅義偉首相がもくろんだ解散・総選挙が封じられて党内の求心力が急低下し辞任を表明したのを受けてです。岸田文雄が選出されました。

 安倍は言わずと知れたタカ派。その政権で史上最長の内閣官房長官を務めた菅がその延長とみなされやすかった。対して岸田は池田派以来の名門ハト派閥の領袖でソフトイメージへの転換です。

 任期満了が迫っていたから否応なかったとはいえ岸田は10月に首相に就任すると同時に14日解散、31日に総選挙を発表しました。結果は前回より減らしたものの絶対安定多数(261議席)を得たのです。

 いずれも新総裁選出→首相指名から間を置かずに解散しているのが共通項。

失敗例

 反対に新総裁選出→首相指名から総選挙まで時間をかけてしまうと敗北を喫しています。

①1974年 金脈問題→クリーン三木武夫

 同年に評論家・立花隆が雑誌『文藝春秋』で田中角栄首相の金脈問題を取り上げて批判の嵐。結局、11月に首相が退陣表明をしました。

 後継総裁は選挙で選ばずに12月、椎名悦三郎副総裁の裁定という形で三木武夫が選出されたのです。というのも当時の総裁選はカネまみれが当然で、金脈の批判のなか角栄の押す大平正芳と福田赳夫という宿敵同士のぶつかり合いになれば世間の風は一層冷たくなると憂慮され、どちらでもない「クリーン三木」登場となりました。

 三木は公職選挙法や政治資金規正法を改正するなど「クリーン」さをアピール。さらに76年に噴出したロッキード事件にも徹底究明の姿勢を堅持したのです。結果として7月、田中前首相逮捕という大事件へと発展しました。

 こうした三木の姿勢に憤った田中派らの勢力が「三木おろし」に走り、粘り腰が持ち味の三木も内閣から反対勢力を追い出した上での解散を模索。両者の激しいせめぎ合いは「三木おろし」も解散もできない膠着状態に陥ったまま76年末の任期満了に基づく総選挙に持ち込まれました。国民の多くは三木の姿勢を了としても自民党の体たらくには厳しく、党内も分裂状態で団結にほど遠かったのも禍して過半数割れ(公認候補)の敗北を喫したのです。

②2008年 暗くて弱い短命政権→「ローゼン閣下」華の麻生太郎

 当時の自民党は新興勢力の民主党に押されていました。小泉純一郎の後を継いだ安倍晋三は参院選で大敗した後に政権を放り出し(後に病気が原因とわかる)、次の福田康夫も地味で1年で辞任。概して暗くて弱いイメージを醸し出していたのです。

 ここで見出されたのが麻生太郎。漫画「ローゼンメイデン」愛読者といううわさから一部若者に「ローゼン閣下」「俺たちの麻生太郎」と支持され、ご本人も明るく楽しい華のあるノリを武器に秋葉原で演説するなど人気を高めました。選挙の看板になると9月の総裁選で完勝。

 この時点で05年総選挙から3年経っていて過去の勝ちパターン通り即刻解散・総選挙に持ち込まれると誰もが思っていて「10月解散、11月投開票と具体的日程まで飛び交っていたのです。麻生自身も『文藝春秋』08年11月号(10月10日発売)で「堂々と私とわが自民党の政策を小沢(一郎・民主党)代表にぶつけ、その賛否をただしたうえで国民に信を問おう」と勇ましかった。

 しかし結局、麻生は解散を先延ばししました。折からのリーマン・ショック対策を優先たるためというのが主眼でしたが、民主党との決戦に自信を持てず、万一負けたら首相就任の9月から約2カ月の超短命内閣になるのをおそれたとの憶測も。

 結果として「ぶれる首相」のイメージが付き。「ホテルのバーは安い」「漢字が読めない」などわずかな失言や失態を重ねて急低下。ほぼ任期満了の09年8月に総選挙を打つも準備万端の民主党圧勝劇を招いて野党へ転落したのです。

十文字学園女子大学非常勤講師

十文字学園女子大学非常勤講師。毎日新聞記者などを経て現在、日本ニュース時事能力検定協会監事などを務める。近著に『政治のしくみがイチからわかる本』『国際関係の基本がイチから分かる本』(いずれも日本実業出版社刊)など。

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