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平成の高校野球10大ニュース その1 1992年/松井5敬遠

楊順行スポーツライター
「高校生に一人プロがまじったような」星稜高時代の松井秀喜(写真:岡沢克郎/アフロ)

 1992年、つまり平成4年8月16日。第74回全国高校野球選手権の7日目第3試合で、明徳義塾(高知)と星稜(石川)が対戦した。49番目、しんがり登場の明徳は、夏2年連続3度目の出場で、前年に就任した馬淵史郎監督にとって2回目の甲子園だった。対する星稜は、4年連続の夏。前年夏はベスト4、この年のセンバツでもベスト8の原動力は、なんといっても松井秀喜(のちヤンキースなど)である。91年夏に甲子園初ホーマーを記録した松井は、ラッキーゾーンが撤去されたこの92年センバツでも3ホーマー。夏までに高校通算59本のアーチをかけ、“ゴジラ”のニックネームを襲名していた。

 この甲子園でも初戦、長岡向陵(新潟)と対戦すると、あわやという大飛球と大三塁打を放ち、スタンドをうならせていた。この試合で勝ったほうと対戦する明徳ナインもスタンドに詰めかけ、投手の河野和洋は、「最初のライトフライなんか、打球が見えなかった」とのちに回想している。いかつい体、ドスのきいた容貌、並外れたパワーは、ゴジラの名にふさわしい。結局星稜はこの試合を勝ち上がり、2回戦での対戦が決まると馬淵は、こっそり星稜の練習を見に行った。

「そらもう、すごい。高校生に社会人が、いや、プロが一人まじっているようなものだったね。神戸製鋼のグラウンドで、ライトのポール側から松井の打撃練習を見たら……左打席から、レフトのスタンドに入れよる。ノンプロの選手でもなかなか打てんよ」

勝負がかかる場面では松井を敬遠

 その松井との対戦で、「野球は確率のスポーツ」という馬淵がはじき出した答えは……勝負がかかる場面では松井を敬遠、というものだった。もし松井を打ち取れるとしたら、ボール気味のインコースが有効だが、球威不足なら効果は半減するし、ぶつけてしまうのも怖い。しかも明徳は、エース番号をつけた岡村憲二がヒジを痛め、高知大会は、本来外野手の河野和洋が代役でしのいできた。松井に対して、力不足は明らかだ。つまり、勝負がかかる場面では松井を敬遠……。

 怪物スラッガーの登場、しかもお盆の日曜日とあって、甲子園には5万5000の大観衆が詰めかけた。お目当てはむろん、松井のホームランだ。1回表、2死から山口哲治の三塁打で、いきなり四番・松井に打順が回る。明徳バッテリーは迷わず敬遠し、星稜は続く五番の月岩信成が内野ゴロで無得点。一塁が空いている場面だから、松井の敬遠はまあ、当然だ。明徳が2回に2点を先取し、次に松井に打順が回ったのは3回1死二、三塁。やはり一塁が空いているから、敬遠は有力な選択肢だ。満塁。ここで月岩がスクイズを成功させて、星稜が1点を返している。

 このあとの、松井の打席。

3打席 5回表1死一塁(スコアは星稜1対3明徳義塾)

4打席 7回表2死無走者(2対3)

5打席 9回表2死三塁(2対3)

 つまり、5打席連続敬遠である(もっとも故意四球とは、投球する前から捕手が立ち上がって4ボール目を投げたときに記録されるから、公式記録上は単なる"四球"だが)。断るまでもないが、敬遠すれば打者だけではなく走者にも安全進塁権ひとつをただでくれることになり、それなりのリスクがある。現に明徳も2回にはスクイズで、あえて得点圏まで走者を進めた5回には、後続の適時打で1点ずつ与えてしまっていた。ちなみにこのときホームを踏んだのが、いま星稜の監督を務め、このセンバツで相手二塁走者のサイン盗みを訴えた林和成だ。

 それはともかく、松井の4打席目あたりから、球場がざわつき出した。走者なしでも敬遠とはどういうことだっ! というわけだ。なにしろ多くの観客は、松井のホームラン見たさに足を運んでいるのだ。不平や反感といった分子が、甲子園に沈殿する。ひとつひとつは微細な分子でも、なにしろ5万5000の観衆だ。試合の進行とともに、少しずつ濃度が高まっていった。

不平の分子に引火し、爆発

 3対2と明徳1点リードのまま星稜最後の攻撃も、2死走者なし。ここで、山口が3本目のヒットとなる三塁打を放って2死三塁、あと1アウトという場面で、よりによって打順が松井に回ってきた。初球ボール、2球目ボール、3球目もボール。そのたびごとに、群衆の不満は飽和点に近づき、松井が静かにバットを置いて一塁に歩いたとき、とうとう引火し、爆発した。

 帰れ! 帰れ! の怒号。青いメガホン、コップ、大ぶりのラジカセ……三塁側星稜アルプスから、あらゆるものがフィールドに投げ入れられる。一時試合が中断するほどだったが、そういうものものしさは、次の打者・月岩に思うようなスイングをさせてくれるわけもない。松井が二盗に成功し、一打逆転の場面となったが、月岩は平凡なサードゴロに倒れて試合終了。松井の最後の夏は、明徳の校歌をかき消す「帰れ! 帰れ!」のシュプレヒコールでフェィドアウトした。

 後年、馬淵を訪ねたとき。あんな騒動になるとわかっていたら、敬遠はしなかったよ……と苦笑しながら強調したのは、整合性ということだった。

「いまでも5敬遠がこれだけ話題になるのは、要は松井がそれだけすごかったということ。プロに入っても、ナミの選手だったらもう忘れられているわ。まあもっとも、ナミで終わるような選手なら最初から敬遠などせんか。勝ち負けよりも大切なものがあるのは百も承知、それでも負ける確率が高い作戦をとる監督がどこにいますか。3打席目は、一発放り込まれたら同点だから勝負を避けた。4打席目もそうで、2点差だったら文句なく勝負に行くわ。5打席目もそうなんよ。一打同点、ホームランなら逆転というここで勝負したら、そこまで敬遠したことと矛盾するでしょう。ただ、ウチが取られた2点はどちらも松井君の敬遠がらみ。勝ったから成功といえるけど、1対2で負けていたら、敬遠は失敗ですよ」

 この騒動で、学校あてにも非難や中傷の手紙が届くと馬淵は、校長に辞表を提出した。その後丸3年甲子園から遠ざかったときも、もう一度辞表を出した。そこで慰留され、翌96年センバツに出場すると、以後は毎年のように春、夏の甲子園に姿を見せ、91年夏から2010年夏まで続いた20戦連続初戦突破という記録は、歴代1位だ。そして、松井の敬遠からちょうど10年となる02年の夏に馬淵明徳は、ついに全国を制覇することになる。

 ついでにいえば、1回戦を勝ち上がると明徳と対戦するクジを引いたのは、星稜の主将・松井だった。松井自身が引いたクジであること。山口が最後の打席で三塁打を放ったから、松井に5打席目が回ったこと。5敬遠という前代未聞のデキゴトは、いわば松井自身と星稜ナインの演出でもあるわけだ。そして後年、河野に聞いた話。松井が引退してから河野は、テレビ局の企画でもう1打席、松井と対戦したそうだ。そこでもご丁寧に、四球だったとか。さらに、

「オンエアはされなかったけど、そのときもう1打席対戦したんですよ。その打席も、四球でした(笑)」

 河野対松井はつまり、7打席連続四球ということになる。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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