【駅の旅】殿下の進言で設置された北前船の寄港地の駅/JR山陰本線諸寄駅(兵庫県)
かつては長大な長距離列車がやって来たが・・・
小さな木造駅舎の残る諸寄(もろよせ)駅にはおよそ1時間に1本のディーゼルカーがやって来る。今はひっそりとした無人駅である。この駅のある山陰本線には、昭和の頃は京都や大阪などから、遠く出雲市や浜田方面とを結ぶ長距離普通列車がのんびりと走っていたものだ。だが、今では大半が浜坂と鳥取との区間運転の普通列車である。雨の朝、たった1両の浜坂行きにひとりの若い女性が乗り込んだ。列車が行ってしまうと、あたり雨音だけが聞こえる静寂に包まれた。
皇室ゆかりの小さな木造駅舎も近々建て替えか?
この地に鉄道が開業したのは1911(明治44)年のこと。だが、開業当時、諸寄駅はまだなかった。1929(昭和4)年に京都伏見の宮家、久邇宮多嘉王殿下がこの地に避暑に訪れた。その時は隣の浜坂駅から人力車で諸寄まで来られたが、殿下の進言により、2年後に夏の間、ここに仮設駅が設置され、その後、1938(昭和13)年に正式な駅に昇格した。
ところが、JR西日本は、開業以来のこの駅舎を近々取り壊して、簡素な駅舎に建替える計画があるという。現に、近くの居組駅や柴山駅には昔の駅舎はすでになく、簡素なコンクリート造りの駅舎に建替えられてしまった。昔からずっとこの町を見つけ続けてきた趣のある駅舎を壊し、素っ気ないコンクリート造りにしてしまうのは、あまりにも無粋であると、地元では、現駅舎を残すように陳情しているという。
諸寄はかつて北前船で栄えた町
諸寄は昔、北前船の寄港地として栄えた町。久邇宮殿下がその時、滞在されたのが、廻船問屋として栄えていた東藤田家だった。久邇宮殿下は諸寄をたいそう気に入られて、毎年、ご家族でこの地に滞在され、当主の藤田治右衛門は、殿下のために別荘を建てた。その別荘は船が来たらよく見えるように物見台があったという。
その別荘は現存しないが、築後130年の「東藤田邸」は、日本構成文化財に指定され、入母屋造りの庭園や、由緒あるふすま絵、掛け軸を見学でき、久邇宮ご一家が滞在された時の上の写真も飾られている。この邸宅は、今はゲストハウスとなっているが、宿泊できるのは一日一組のみ。この家のご夫妻は英語とフランス語が堪能なので、コロナ禍以前は外国人客が多かったそうだ。
悲劇の歌人・前田純孝の歌碑がひっそりと立つ
東藤田邸のご主人が尊敬されているのが、諸寄を故郷とする明治の歌人、前田純孝(翠渓)。彼は与謝野鉄幹が「東の啄木、西の翠渓」と称賛したほどの才能の持ち主で2000首もの短歌を残しているが、当時、不治の病といわれた労咳(結核)に冒され、31歳の若さでこの世を去った。諸寄の海岸が見える岡の浜公園に、彼を偲ぶ歌碑がひっそりと立っていた。
かつて、北前船がやって来た海には、冷たい雨が降っていた。この海岸は古代から雪のように美しい浜辺といわれ、昔から「雪の白浜」と呼ばれていたそうである。