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[高校野球]あの夏の記憶/すごすぎてマンガにもしにくかった……怪物・江川卓 その1

楊順行スポーツライター
江川卓(作新学院)の甲子園初登板は1973年センバツ開幕戦(写真:岡沢克郎/アフロ)

 令和の怪物が佐々木朗希(大船渡、現ロッテ)、平成の怪物が松坂大輔(横浜、現西武)なら、昭和の怪物はまぎれもなく江川卓(作新学院、元巨人)だ。

 1973年のセンバツ。作新学院(栃木)の江川は、前年夏の新チーム結成から110イニング無失点という、野球マンガのヒーローのような記録をひっさげ、初めての甲子園に乗り込んでいた。3月27日の開幕試合では、出場30校中最高のチーム打率・336を誇る北陽(現関大北陽・大阪)から、いきなり三者三振。2回表も四番を三振で、そこまで1球もボールにかすらせない。初めてバットにボールが当たったのは五番・有田二三男(元近鉄)のファウルで、江川の投じた23球目。当たった! と、満員のスタンドが大きくどよめいた。

 作新学院はこの大会、広島商との準決勝で敗れ、江川の無失点イニングは139で途切れたが、4試合33回を投げた江川は被安打わずか8、自責点1、防御率は0.27。奪った三振なんと60はいまだに破られない大会記録である。このセンバツが、江川にとって初めての甲子園。1年夏の栃木大会では、背番号17ながら烏山との準々決勝で大会史上初めての完全試合を達成するなど、その剛球は早くから噂になっていたのに、だ。

 かつて、栃木県内の中学、高校で江川と対戦した同世代人の話を聞いたことがある。高校入学前年の1970年、強かったのは栃木東中だ。69年秋の新人戦で県大会を制し、70年シーズンも大本命。だが春先の練習試合で、小山中に敗れてしまうのだ。小山中のピッチャーが、前年秋に静岡・佐久間中から転校してきた江川だった。衝撃でした、というのは、石川忠央さんだ。当時栃木東中の五番を打ち、栃木工から専修大でプレー。栃木市内で『石川スポーツ』を営んでいる。

「江川が投げて、たぶん1対2か2対3で負けています。三振もかなり取られました。速かったですねぇ。僕も連続三振をしているはずです。小山中は、前の年の秋には県大会にも出ていないのでノーマークでしたが、江川ともう一人、秋にはいなかった和田(幸一)という選手が転校してきていたんですよ。のちに、作新学院で一番を打つ選手です」

もし江川と同じ高校だったら……

 その70年、8月の栃木県中学校総体では、栃木東中と小山中が決勝で対戦し、小山中の優勝。ただ江川に対して、手も足も出ないという感じではない。タマこそ速くても、コントロールがめちゃくちゃだったのだ。現に、総体のあとで行われた少年野球大会ではまたも決勝で当たり、今度は栃木東中が延長8回で勝っている。「江川は軟式のボールが合わなかったのか、浮いたボールが多くてね。四球で出て、そこに足とバントを絡めていけば、つけ込むスキはありました」(石川さん)と、3安打に抑えられながら10四死球を得て勝ちにつなげた。

 ただ、無名の小山中を県大会優勝に導いた逸材として、江川の名前は広く知られるようになった。石川さんら栃木東中ナインにとっても、江川の進路は興味津々である。何度も対戦するうちに交流が生まれ、自然に進路の話にもなった。その輪に、当時栃木東中の金久保孝治さんもいた。金久保さんはそのころ、小山市内の江川の家に遊びに行ったことさえあるという。

「お母さんに食事を作ってもらったりもしました。中3の冬かな……栃木東中や小山中から、私も含めて何人か小山高校を希望していました。断言はしませんでしたが、江川もそんな雰囲気だったんです。小山高は、江川家の近くでしたしね。通学するにはむしろ、栃木市内の私のほうが条件が悪い。そのころ、小山二中には大橋(康延、元大洋)がいて、江川が小山に行きそうだということで、進学希望を小山から作新学院に変更したらしいです。江川がいたら、エースになれませんから。そして実際、江川は小山高校に願書を出しているんです。

 ところが入試の前日、江川のオヤジさんから私に電話がありまして『卓は小山に行けない』というんです。う〜ん……本人に面と向かって聞いたことがないので、理由は想像の域を出ませんが、大橋にとっては皮肉ですよね。進路を変更した作新に、江川が来るんですから。よく想像しますよ。もし江川が小山に来ていたら、私も3回くらいは甲子園に行っていたんじゃないか、人生、変わっていたんじゃないかって」

 金久保さんは小山高から法政大でプレーした。その法政大では、慶応大受験に失敗した江川とチームメイトになるのだから、なんとも皮肉なものだ。大学時代は、袴田英利(元ロッテ)の陰に隠れていた金久保さんも、社会人野球(日本鋼管〜NKK)で開花。86年の都市対抗では、史上2人目の1試合3ホーマーを記録してのち全日本の四番を務めるなど、息の長い野球生活を送ることになる。(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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