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【深掘り「鎌倉殿の13人」】「武衛・・・!」と叫びながら死んだ上総広常の悲惨な最期

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
上総広常を演じた佐藤浩市さん。(写真:Keizo Mori/アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のトークショーには、上総広常を演じた佐藤浩市さんも出演していた。ドラマで「武衛!」と叫びながら死んだ上総広常の悲惨な最期について、詳しく掘り下げてみよう。

■上総広常の登場

 上総広常は常澄の八男として誕生した(生年不詳)。保元元年(1156)の保元の乱で、常澄・広常父子は義朝に従った。平治元年(1159)の平治の乱では、義平(義朝の子)に従って敗北した。

 戦後、常澄は没し、広常は平氏に帰伏した。広常は常澄の遺領に加え、上総介としての権限も継承した。とはいえ、治承3年(1179)、広常は平氏の譜代の家人・伊藤忠清とトラブルになり、平清盛との関係が悪くなった。

 また、下総国では平氏との関係が深い藤原親政(妻は平忠盛の娘)が勢力を伸ばしていた。広常が平氏に強い憤りや反感を感じたのは、ごく自然のことだったといえよう。

■源頼朝の挙兵

 治承4年(1180)、源頼朝は打倒平氏の兵を挙げたが、大庭景親との戦いで敗れたので安房国に逃れた。安房国に逃れた頼朝は、東国各地の豪族に打倒平氏の挙兵を呼び掛け、広常にも味方になるよう要請した。

 広常は約2万の軍勢を引き連れ、頼朝のもとに参上したが、頼朝に将としての器がなければ、討ってしまおうと考えたという。しかし、意外にも頼朝は歓迎せず、広常の遅参を手厳しく注意した。広常は一喝されたことで、頼朝が人の上に立つ器があると考え、以後は二心を捨て、頼朝に協力することを堅く決意したという。

 広常が頼朝に恭順の意を示すことなったので、頼朝は盤石な体制を築き上げることに成功し、「打倒平氏」に注力することができたのである。とはいえ、この話はあまりに出来すぎており、史実か否か検討を要しよう。

■まとめ

 寿永元年(1183)12月、広常は頼朝から謀反の疑いを掛けられ、鎌倉の御所内で殺された。頼朝から殺害の指示を受けた梶原景時は、双六に興じているときに広常の首を取ったという。

 翌年1月、広常の鎧から、頼朝の武運長久を祈念する願文が見つかった。広常に謀反の意はなかったのである。頼朝は広常を討ったことを痛く後悔し、残った一族を許したという。

 とはいえ、広常が2万の軍勢を率いたというのも誇張が過ぎるし、広常の願文が鎧から見つかったというのも、非常に出来過ぎた話である。頼朝が広常を脅威と思ったので討ったのだろうが、『吾妻鏡』は頼朝を引き立てるため、美談に仕立て上げたのではないだろうか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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