【戦国こぼれ話】なぜ関白豊臣秀次は自害しなくてはならなかったのか?謎多き諸説のポイントとは?
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■謂れなき言いがかりへの対応
謂れなき言いがかりをつけられ、困ったことがある人はいるはずだ。その対応は非常に難しいこともあり、ケースによっては問題が大きくなってしまい、泥沼化することもあろう。
豊臣秀吉は養子で関白の秀次に切腹を申し付け、秀次は自害して果てた。なぜ秀次が切腹を申し付けられたのかについては、昔から諸説ある。それらの説を紐解くことにしよう。
■古典的な説
文禄4年(1595)7月15日、関白の豊臣秀次は高野山で自害した。その理由については諸説ある。中でも秀頼溺愛説は、もっとも有力なのかもしれない。
文禄元年(1592)に秀次が関白になった翌年、秀吉に実子の拾(秀頼)が誕生した。秀吉はいったん秀次を後継者と認めたものの、どうしても秀頼に自分の地位を譲りたくなった。
そこで、秀吉は疎ましくなった秀次に切腹を命じ、将来の禍根を取り除いたというのが古典的な秀頼溺愛説だ。古くからある説であるが、最近では疑問視されており、新たにさまざまな説が登場した。
■親子の確執説
秀吉・秀次確執説は、もっともスタンダードな説の1つである。文禄4年(1595)2月に蒲生氏郷が亡くなった際、その遺領の扱いをめぐって、豊臣秀吉と秀次の判断が異なった。
秀吉はいったん遺領を没収しようとしたが、秀次が秀吉の判断を覆したため、2人の間に確執が生じたという。また、太閤の秀吉と現職の関白である秀次との間には、日本国内の統治権の権限分掌をめぐる確執があったとも指摘されている。
■悪行・乱行説
悪行・乱行説も興味深い説である。秀次は弓矢の稽古と称して人を射たり、鉄砲の練習であると言っては農民を射撃していたという。また、刀の試し斬りをするため往来の人を斬り、これを「関白千人斬り」と称していた。
こうした悪行が積もり積もって、やがて秀吉の勘気に触れたという(『太かうさま軍記のうち』)。このほかに、秀次は数百本におよぶ名刀を所持しており、名刀であるか否かを判断すべく、秀次は人間で試し斬りを行ったとされている。
ただ、いずれの話も疑わしいと言わざるを得ない。
■石田三成讒言説
石田三成讒言説もよく知られた説になろう。菊亭晴季の娘・一の台は、秀吉の側室になる予定だった。しかし、その美貌を見初めた秀次は、秀吉に内緒で自分の側室とした。
秀吉はこの事実を三成の讒言で知り、嫉妬に怒り狂った。そこで、秀吉は秀次を切腹させるため、わざわざ罪を捏造したというのである(『川角太閤記』)。
あるいは、文禄3年(1594)に豊臣秀次と毛利輝元は誓紙を交わしたが、急に三成と増田長盛が「秀次に謀反の疑いあり」と言い掛かりをつけ、ほかの問題もあわせて秀次の所業を追及した。
この三成らの讒言により、秀吉は秀次に対して大きな不信感を抱き、ついに切腹に追い込んだといわれている(『甫庵太閤記』)。こちらも、根拠となる史料の質に問題があり、あまり信が置けない。
■秀吉暗殺説
秀吉暗殺説というのもある。秀次は、鹿狩りにかこつけて秀吉を聚楽第に招いた。実は、秀次は数万人の兵を整えて、秀吉を殺害しようと計画していたという。
この情報を得た三成はすぐに秀吉の耳に入れ、聚楽第に行かないように伝えると、秀吉は大いに驚いたという(『上杉家御年譜』)。ただ、あまりに荒唐無稽な気がしないわけでもない。
■服喪拒否説
正親町天皇の崩御に絡んだ服喪拒否説というのもある。文禄2年(1593)1月、正親町天皇が崩御した。しかし、秀次は喪に服することなく、直後に鶴を食べたという。
以後も秀次は遊興三昧の日々を送り、自邸の聚楽第で相撲を興行し、また『平家物語』を検校に語らせ、ついには鹿狩りを行うなどしたと伝わる。
これらの所業は正親町天皇への侮辱であり、万死に値するということになろう。
■秀吉への謀反説
秀吉への謀反説もある。『言経卿記』文禄4年(1595)7月8日条には、「関白殿(秀次)と太閤(秀吉)との間は、去る3日から不和になった」と記されている。
その背景には秀次の謀反を企んでいるとの風聞があり、両者の間には修復不可能なほどの事態が突発的に起こり、秀次切腹の遠因になったという。
■秀次による無実証明説
近年もっとも有力視されているのは、無実証明説だろう。実は、秀吉は秀次に高野山行きを命じておらず、秀次の意志による出奔だったと指摘されている。
さらに驚くのは、秀吉は秀次に切腹を申し付けていないとされ、秀次が自身の身の潔白を証明するため、あえて切腹におよんだという。抗議の切腹ということになろう。
秀次が切腹をしたとの報告を受けた秀吉は、自分の命令で秀次に切腹を命じたと言わざるを得ない状況に追い込まれた。また、秀次を切腹させた以上は連座を適用して、秀次の家族や関係者にも厳しい処分を科さざるを得なくなったというのである。
しかし、決定的な証拠は乏しく、未だに秀次の切腹については、論争が続いているところだ。