世界遺産の価値からみた清水寺
京都の世界遺産の魅力シリーズ今回は清水寺。ポイントはやはり「清水の舞台」で知られる本堂だ。寛永10(1633)年に徳川家光の再建で、建物に南面する前半分が崖にせり出すように舞台形式で建てられており、それを欅(けやき)の柱で支える構造で「縣造(かけづくり)」または「舞台造」と呼ばれている。
舞台は御本尊に舞を奉納する際に使われ、総檜造であることから、後に一世一代の晴れ舞台のことを「檜舞台」という語源になったとも。舞台下の支柱と貫の接合には釘は使われておらず、これによって木材の腐食を防いでいる。また一度はめると決して外れることがないことから「地獄組」という名前も。ぜひ音羽の滝のあたりから上を見上げて欲しい。
そもそも何故この「清水の舞台」が造られたのか。それは寺の創建に遡ることになる。奈良の子嶋(こじま)寺にいた延鎮(えんちん)上人が、観音様をお祀りするに相応しい場所を探していたところ、この清らかな水が沸き出でるこの地にたどり着き、十一面観音を祀ったのが起こりとされる。観音様は崖の上に立つという考え方があり、巷で今も盛んに行われている観音霊場巡りは原則的にそういう場所を巡っていくことになる。隣の滋賀県なら石山寺が挙げられ、文字通り「石山」の上に観音様がいらっしゃる。
その後、延鎮上人は鹿狩りに来ていた坂上田村麻呂(初代征夷大将軍)に対して殺生を戒めたのをきっかけに帰依を受け、その寄進によって本堂が建立され、弘仁元(810)年に嵯峨天皇から宸筆を賜って鎮護国家の道場となり「清水寺」と号した。この結果、京都における観音信仰の聖地となり、絶大な庶民からの信仰を集めることになる。現在は観光で参拝者を集めているが、平安初期からずっと信仰の寺院だということ。あまりにも人が集まるから多くの店が参道に並び、現在は参道も観光的に大きな魅力となっている。
歴史的には、長らく奈良の興福寺に属したため、「南都北嶺(なんとほくれい)」の争い(奈良の仏教と新興勢力であった比叡山延暦寺の戦いを指す)では、延暦寺と対立して度々戦乱による被害を受け、江戸時代の寛永年間になると、徳川家光によって諸堂が整えられ、現在の形となっている。
ぜひ次回参拝時には、「清水の舞台」から景色を楽しんだ後、履物を脱いで本堂奥へと進み、本尊と同様の御前立ちに願いをかけてみては。実際の本尊は秘仏で33年に1度の公開。次回は2033年予定だ。