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関ヶ原合戦前夜、石田三成が大谷吉継から「人望がない」と指摘されたのは事実か?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
石田三成。(提供:アフロ)

 今も昔も、人柄というか、人間性は重要である。嫌われ者では、うまくやっていけない。関ヶ原合戦前夜、石田三成は大谷吉継から「人望がない」と指摘されたといわれているが、それが事実なのか考えてみよう。

 関ヶ原合戦前夜、西軍を率いた石田三成は、大谷吉継に味方になって欲しいと懇願した話がある。最初、吉継は断わったが、あとになって承諾したのである。この話は、『慶長見聞書』などの諸書に書かれた話で、広く知られたエピソードである。

 この話は、関ヶ原合戦を扱った映画や小説でも欠かすことができない名場面で、吉継は負ける可能性が高いことを予想しつつも、盟友である三成からのたっての頼みなので、応じたという。負けると分かっていても、男同士の友情が勝ったということになろう。

 この場面を描いた諸書により、事情を詳しく探っておこう。三成は徳川家康の専横により、天下が奪われるのでないかと懸念した。秀吉に恩義がある三成は、これを許せず挙兵を画策し、吉継に相談したのである。

 相談を受けた吉継は困った表情になり、「あなた(三成)は人に嫌われており、かつて切腹を迫られたとき(七将から非道を訴えられた)、私(吉継)が手を尽くしたので助かった」と述べた。つまり、三成には人望がないと言い切ったのである。

 続けて吉継は、「家康は約300万石の大名で、多くの軍勢を率い、おまけに人望もある。しかし、あなた(三成)は小禄で人望がない」と述べ、三成の企てをやめさせようとしたが、ついに叶わなかったのである。

 吉継はいったん辞去したが、三成の説得は続いた。吉継はかつての盟友である三成を見放し難くなり、ついに三成の挙兵に応じることになったのである。この話は美談として語り継がれてきたが、後世の編纂物に書かれたものである。たしかな史料には記録されていない。

 そもそも吉継は、家康派と行動していた。やがて、吉継が家康の専横に危機感を抱いたのは、三成と同じだったと考えられる。三成の西軍には毛利、宇喜多、小早川、島津らの大名が与することになり、少なくとも家康に勝利する可能性があった。ゆえに、吉継は三成の誘いに応じたのだろう。

 そもそも戦国武将はお人好しではなく、損得勘定で動く打算的な考えがあった。結果として西軍は敗北したが、挙兵の時点では勝てると見込んでいた。吉継は西軍が勝つと思ったから、与同したのであって、三成との友情は関係ないと考えられる。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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