「源義経=チンギスハン」説!ドイツ人医師の提唱に納得してしまう理由とは
平家との戦いで連戦連勝し、源氏の勝利に大きく貢献した源義経。
実は、モンゴル帝国の初代皇帝・チンギスハンと同一人物説が囁かれているのはご存知でしょうか。
そこで今回は、「源義経=チンギスハン」説を裏付ける理由を紹介したいと思います。
源義経とは
源義経は、平安時代に生まれた武将です。
参戦した戦いでは連戦連勝し、人間離れした伝説を多く残している人物で、英雄と囃されることも少なくありません。
そんな彼ですが、義理の兄である源頼朝に危険視され、追い詰められたのちに自害してしまいます。
チンギスハンとは
チンギスハンは、モンゴル系の部族を統一し、ほとんどの中央アジア大陸を自身の手中に納めた人物です。
チンギスハンが率いた当時のモンゴル帝国は世界最強と謳われ、その実力に見合う領土を持ち合わせていました。
まさに、日本の平安期における世界最強の男だったのです。
「源義経=チンギスハン」説
源義経もチンギスハンもお互いに武将として実力のある人物であることは間違いないでしょう。
しかし、日本で活躍した源義経とモンゴルで活躍したチンギスハンが同一人物として語られるのはどうしてでしょうか。
・生きていた時間
1159年に誕生してから、1189年に自害するまでの期間を生きた源義経。
一方で、チンギスハンが歴史上に名を広めたのは、1190年に起こった「十三翼の戦い」でのことで、それ以前の彼についての詳細は判明していません。
つまり、自害したと思われた源義経が中央アジアに逃亡し、力を蓄えてモンゴル帝国を建国したと考えることができるのです。
・家紋
源義経の家系では、主に「笹竜胆(ささりんどう)」の家紋が使用されていました。
実はチンギスハンが率いた軍も、笹竜胆に酷似した紋章の旗を掲げていたのです。
・2人の酷似した特徴
生きていた時間や使用していた家紋以外にも、2人には共通する特徴がありました。
具体的には、「低身長でお酒が飲めない」「得意とした戦術が似ている」などで、このように類似する特徴が、「源義経=チンギスハン」説の信ぴょう性を高めている理由のひとつです。
シーボルト医師の見解
「源義経=チンギスハン」説を提唱したのは、江戸時代に先進医学の技術をもつドイツから来日した「シーボルト(本名:フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト)」という医師でした。
そんなシーボルトは民俗学にも精通した博識な人物で、島国の日本では入手困難なモンゴル帝国の情報も持ち合わせていたともいわれています。
生きていた時間の相互性や家紋を見ると信じたくなるこの説は、人気のまま終了し、続編を期待する声がやまないドラマ「VIVANT」を彷彿とさせますね。
源義経の正体
徳島県には、源義経の活躍を讃える大きな石像があります。
「源義経=チンギスハン」説が囁かれていますが、実際に石像を見ることで感じ取れるものがあるかもしれません。
ぜひ足を運んでみてください。