裸で海底から引き揚げられた女性…彼女を死に至らしめた天皇の勅命とは
古くは、日本の一般職業として普及していた「海人(女性のことは海女という)」。
命を落とす危険も十分にありうる職業だったため、当時は店をもてない没落商人の家系や生活困窮者など、働き先のみつからない人が生業とすることも多かったようです。
裸で素潜りをした当時の海女は春画に描かれることも多く、低い身分も起因して性や嘲笑の対象になることもありました。
しかし、徳島県鳴門市で生まれた海女「男狭磯(おさし)」は、天皇に讃えられるほどの功績を残し、海人全体の地位を向上させています。
※本記事の内容は様々な方に歴史の魅力を感じていただけるよう、史実を大筋にした「諸説あり・省略あり」でお届けしています。
・明石に眠る宝
西暦425年、板野郡長村(現在の鳴門市里浦町)に「男狭磯」という海女がいました。
ほかの海女より何倍も深く潜ることができた彼女は、当時の第十九代天皇「允恭天皇」の勅命で明石の海底に眠る真珠を探すことになります。
彼女が船を飛び降りて海に潜ると、50尋(1尋=約1.6m:約80m)潜ったところで光り輝く大きなアワビを発見しました。
しかし、アワビがあるのは水深60尋(約96m)もある海底。
現在の素潜りは初心者で1m〜10m、経験者でも20m〜30mの世界です。
水深96mは水圧・呼吸の両面をみても、常人が辿り着くことは不可能でした。
しかし、天皇の命を完遂させたかった男狭磯は仲間が無理だと止めるなか、再びダイブ。
数分後、船のロープから強い力を感じて船員が引き上げると、大きなアワビを抱えたまま溺死した男狭磯の遺体が引き上げられました。
このアワビのなかから、桃ほどのサイズにもなる大きな真珠が取り出され、天皇は神様へ捧げたといわれています。
允恭天皇は男狭磯の功績を讃え、明石の海を見渡せる山(丘)に彼女の墓石を建設しました。
徳島県鳴門市の「十二神社」には、男狭磯が住んでいた「蜑(あま)屋敷跡」や「蜑の井」とよばれる井戸が残されています。
気になった方は足を運んでみてください。