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「イスラム教徒」が必ずしもみな信心深いとは限らない

黒井文太郎軍事ジャーナリスト

「イスラム教徒」の信心度は人それぞれで、かなり曖昧

イスラム国が急にニュースに頻出するようになり、イスラム過激派についての解説をさまざまなメディアで見かけるようになっています。筆者も先日、WEBメディア「JBPRESS」にこんな記事を寄稿しました。

▽イスラム過激派はなぜ過激なのか?~「平和」な宗教がテロを生み出すメカニズム~オバマとイスラム国の戦争(その4)(2014.10.27 JBPRESS)

この記事では、イスラム過激派が生まれるイスラム社会の背景を考察しています。また、イスラムの教義のなかにも「曖昧さ」があり、そこが「解釈」の違いを生み、そこから過激思想が生まれてくる面もあることも指摘しました。

字数の制限から、同記事では触れなかったことを、以下に補足してみます。こちらは統計できるような話ではなく、あくまで筆者個人の経験則という小さなサンプルからの印象論にすぎませんが、他にあまり指摘する人がいないようなので、あえて言及しておきます。

イスラムの曖昧さということに加え、イスラム社会では「イスラム教徒」にも曖昧さがあるように思います。いや、あちらでは宗教・宗派の所属は厳格なもので、社会的ポジショニングとしては曖昧ではないのですが、各イスラム教徒個人の心の問題として、「信徒」であることの意味は、実はけっこう曖昧だということです。

たとえば、日本人の宗教心は、概してかなりいい加減ですね。クリスマスを楽しみ、お寺と神社にお参りしたりします。結婚式は神式やキリスト教会で行い、葬儀は仏式で行ったりします。

それに比べて、世界の他の多くの国では、宗教・宗派は個人行動の面でもかなり厳格です。ましてや中東イスラム社会では、「イスラム教徒」であることがかなり厳しく要求されます。なので、イスラム教徒はみんなものすごく信心深いのだろうと思われているようですが、ホントにそうでしょうか?

そこは人それぞれだと筆者は思うわけです。信心深い人ももちろん数多くいます。けれども、イスラム教徒の中には、心の中ではイスラム教徒であることにそれほど強くこだわっていない人が、実は結構いるのではないでしょうか。

「実はイスラム、あんまり好きじゃないんだよね」

イスラム教徒のほとんどは、自分で望んで信者になるわけではなく、社会的なポジションとして、生まれながらにイスラム教徒になります。その後、周囲の環境に応じて「信徒」として社会生活を送りますが、それは多くの場合、惰性です。

たとえば、筆者自身の体験でいえば、現地で仲良くなった人の家に泊めて貰ったようなとき、家族や友人たちの前では熱くイスラムの素晴らしさについて語っていた人が、深夜に家族が寝静まった後などに、「実はイスラム、俺はあんまり好きじゃないんだよね」と告白するようなことが、何度もありました。ホントに何度もありました。

これは筆者があえてそういう話を仕向けたから初めて出てきたことで、普通に会話していれば決して出てこない「ホンネ」ですが、まあそういうことがよくあったわけです。

筆者の感覚では、とくに若い人にそういう人が多く、年配になると急に敬虔な信者に変貌するパターンがよく見られるように思います。

なので、ホンネではそうしたことがあるかもしれないということを、みんな口に出しては言わないけれども、言わずもがなだったりもするので、それが逆にイスラム社会の同調圧力にドライブをかける面もあるように思います。つまり、敬虔な信徒であることをアピールするため、共同体の中でことさらそれを強調する。周囲の人にもそれを求める。そんな感じですね。

禁忌の問題

禁忌の問題もそうです。じつはイスラム教徒で、隠れて飲酒している人など山ほどいます。人によるし、環境にもよりますが、人間はそれほど禁欲的にはできていません。

たとえば、こんな例がありました。

パキスタンからモスクワ経由ロンドン行きのアエロフロート機に搭乗したとき、乗客はほとんどイギリスに向かうパキスタン人労働者でした。席に着くと、隣のオジサンがさっそくいつものようにイスラムの素晴らしさについて滔々と語り出したわけです。

ところが、飛行機が離陸した瞬間、そのオジサン含めて乗客全員が立ち上がり、我先にと、CAにビールやワインを注文したのです。ホントに乗客ほとんど全員です。

また、お国柄もありますが、フィリピン南部のイスラム・ゲリラなどは、モスクでお祈りした後に、私服に着替えて酒場に直行などという人も普通にいます。

それと、これはイスラムの問題ばかりでなく、社会の後進性の問題という面もあるのですが、性の抑圧もそうです。まあそれでもキリスト教徒の町ではそれほど抑圧的でもないことが多いので、イスラム社会のほうが顕著ではあります。その点で、イスラム社会の堅苦しさに対する反発は、若い世代には結構あるように思います。

もちろんイスラムは禁忌の話だけではありません。禁忌は破るけれども神の存在や神の教えは信じるという人は大勢います。もちろん敬虔な方々も大勢いらっしゃいます。しかし、必ずしも全員がそうだということではないと思うのです。

ホンネとタテマエ

ともあれ、こうした社会で生きるということは、ホンネとタテマエを区別するのが当然ということになるわけです。筆者はこれが非常に重要な点だと考えているのですが、中東のイスラム社会では、人は「ホンネとタテマエを使い分ける」のが当たり前です。中東にかぎらず、こうした使い分けはどの国の社会にもありますが、イスラム社会はその使い分けが格段に大きいのではないかと思います。

イスラム社会では、イスラムの優位性を強調する人は非常に多くいます。さすがに今のイスラム国のような残虐集団を擁護する人は多くはないでしょうが、それなりに攻撃的なことを熱く語る人も、たしかにいます。

けれども、だからといって彼らが過激派かというと、そういうことではありません。強い言葉を共同体の中では語っていても、多くの場合、口先だけのタテマエであったりします。そういう曖昧さがイスラム社会というか、同調圧力の強い社会のひとつの特徴なのでしょう。独裁国家や、昔の共産圏もそういう面がありましたし。

もちろんどんな世界にもさまざまな人がいて、純粋にホンネで過激思想になる人もいます。あるいは、自分で言っているうちにそうなってしまう人もいます。同調圧力に流され、群集心理でそうなるケースもあります。そこは人によってさまざまなですが、そういう中から、過激派に参画する人がちらほら出てきます。また、宗派対立が先鋭化すると、けっこう素早く戦闘集団が誕生したりもします。

ただし、大多数の人は、現実優先で生きています。イスラム社会に過激な言説が流れていても、実際にはほとんどの人は、行動面ではホンネ重視でいきます。一時的には好戦的な「空気」が流行することもありますが、長続きはしません。

前述したように、こうしたことはデータで統計することは難しく、あくまで個人の体験による印象論ではあるのですが、中東経験者なら、似たようなことは感じているのではないかなと思います。表面的なタテマエの会話しかしていないようだと難しいかもしれませんが。

あちらに行かれる方には、ぜひ現地の方と、差し向かいで深夜にじっくり話をされることをお薦めします。たとえばエロ話から政治話へ、そこから宗教の話にもっていくと、昼間とは全然違う話が聞けるかもしれません。

軍事ジャーナリスト

1963年、福島県いわき市生まれ。横浜市立大学卒業後、(株)講談社入社。週刊誌編集者を経て退職。フォトジャーナリスト(紛争地域専門)、月刊『軍事研究』特約記者、『ワールド・インテリジェンス』編集長などを経て軍事ジャーナリスト。ニューヨーク、モスクワ、カイロを拠点に海外取材多数。専門分野はインテリジェンス、テロ、国際紛争、日本の安全保障、北朝鮮情勢、中東情勢、サイバー戦、旧軍特務機関など。著書多数。

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