あの「ロス疑惑」騒動に似てきた「紀州のドン・ファン」怪死騒動の新展開
「紀州のドン・ファン」こと、和歌山の資産家・野崎幸助さんが5月24日に亡くなり、遺体から致死量の覚せい剤が検出されたとして警察が捜査に乗り出したのを受けて、ワイドショーや週刊誌が大報道を展開している。その前に同じような症状で愛犬が死亡していたとか、そもそも野崎さんが亡くなった当日、監視カメラでは外部からの侵入者が確認できなかったとして、当日家にいた女性2人、特に遺産の相続人である妻に疑いの目が向けられている。
警察は関係各所に家宅捜索を行うなど精力的に捜査を進めているようなのだが、まだ事件として立件するには至っておらず、現時点ではこれが殺人事件なのかどうかもわからないのが現実だ。しかし、週刊誌やワイドショーは「犯人視報道」と言ってよい大報道を展開している。かつての「ロス疑惑」事件や、和歌山カレー事件を彷彿とさせる騒動なのだが、ここへきて妻が弁護士を雇って疑惑報道を展開する週刊誌を次々と告訴したり差し止め請求の仮処分を申請したりし始めている。報道をめぐるこういう攻防戦も、「ロス疑惑」事件を思い起こさせる。
1984年の「ロス疑惑」事件は、それをきっかけに今に至る「報道と人権」をめぐる議論が始まったという意味で、エポックメイクな騒動だった。当時ターゲットにされた三浦和義さんの逮捕直後から1年以上にわたって、大報道にさらされる側からマスコミ報道を検証したらどう見えるかという連載を続けたのが、月刊『創』だった。多くの市民はテレビカメラを通して三浦さんを追いかけているのだが、その三浦さん側から見たら騒動はどう見えるのか、というのを連載したのだ。
これはつまり視点や立場を変えると報道がどんなふうに見えるかを検証するという、メディアリテラシーの実践だったのだが、当時、大量の週刊誌やスポーツ紙、新聞のテレビ欄などを連日コピーして獄中の三浦さんに送り、彼の視点から論評してもらうというその作業のために、スタッフ1人が張り付き、私は毎月東京拘置所に通うという日々が続いた。叩かれている側からマスコミ報道を見てみるというこの視点は、その後の『創』の基本パターンのひとつになったという意味でも思い出深い。
さてドン・ファン怪死騒動に話を戻す。当初、疑惑報道の対象になった2人の女性のうち、家政婦の女性は、早い時期からテレビの情報番組にも出演して当日の経緯を詳細に語っていた。そしてそれに続いて、野崎さんの55歳年下とされる妻も『フライデー』6月22日号に登場。「新妻・Sさんが独占告白『私は警察に疑われています』」と題する記事で自らへの疑惑を否定したのだった。
資産家の死をめぐるミステリアスな経緯もさることながら、そのインタビュー記事で驚いたのは、野崎さんと周囲の人たちの関係だ。『フライデー』で妻は、昨年末、野崎さんに初めて会ってプロポーズされ、結婚に至った経過をこう語っていた。
「今年の年明けにもう一度会ったときに、改めて真剣に結婚申し込まれて。『結婚してくれたら毎月100万円わたす』と言われ、正直、『美味しい話だな』と思って2月に結婚しました」
毎月100万円もらえるのに、どうして自分が殺害する理由があるのか、と無罪を訴えるために妻はこの話をしているのだが、金銭の為に結婚したことを公言するなど、この事件をめぐる関係者のつながりの異様さに多くの人が驚いたに違いない。その後、野崎さんは妻に離婚を切り出していたという報道もなされている。
ちなみに妻が『フライデー』に登場したのは、報道されている内容に誤りが多いことを指摘するためで、「通夜でスマホをいじって怒鳴られたというのはまったくのデタラメ」などと報道を批判した。この通夜の話は『週刊ポスト』6月15日号が報じたものだ。
さらに驚いたのは、その後、『週刊現代』6月23日号がその通夜の写真を公開したことだ。見出しは「通夜の席で若妻は笑っていた!」だが、関係者のみで行われた通夜の内部写真が何枚も掲載されていた。通常ならありえないことだが、それがどんなふうに撮影されたかは後に明らかになる。
この時点で多くの週刊誌が疑惑を書き立てたのだが、一応妻については匿名だった。その中で『週刊新潮』6月14日号だけが妻の実名と顔写真を掲載していた。後に妻が弁護士をたてて反撃に打って出た時、最初に告訴したのはこの『週刊新潮』だったようだ。
さて6月18日発売の『週刊現代』6月30日号は「紀州のドン・ファン怪死事件 若妻の逆襲が始まる」と題して、妻が『週刊新潮』を皮切りに週刊誌に対して次々と訴訟を行っていることを報じている。当の『週刊新潮』は告訴を受けた翌週の6月28日号ではこの事件についての記事を掲載していないから、双方で何らかの応酬がなされているのだろう。
自らの記事が出版差し止めの仮処分申請を受けたことを誌面で明らかにしたのは6月21日発売の『週刊文春』6月28日号だ。「ドンファン妻を操るイケメン弁護士とタカリ記者」と題する記事で、同誌に対して販売差し止めの仮処分申し立てがなされたことを伝え、しかし東京地裁が却下したと報じている。同記事によると、他誌への仮処分も多くが却下されているという。
同記事によると、妻の代理人となった佐藤大和弁護士は、ワイドショーのコメンテイターも務める有名人で、6月15日、週刊誌などの差し止め請求を行った当日、自分が以前から出演していたフジテレビの「バイキング」と、同じくフジテレビの「プライムニュース」で妻のインタビューが放送されたという。佐藤弁護士は、この事件についての個別取材には応じていないらしいのだが、そうしながら自分の関わる特定の番組には妻のインタビューに応じるというのはどういうことだ、と『週刊文春』は厳しく批判している。
『週刊文春』のこの記事はなかなか興味深いのだが、前述した見出しに明らかなように、この弁護士とともに返す刀で、妻に深く関わっている『フライデー』の契約記者を断罪している。前述したようにこの騒動では、講談社発行の『フライデー』と『週刊現代』が、妻の独占インタビューや、野崎さんの葬儀の写真まで掲載するなど、妻側に相当食い込んでいるのが特徴だった。『週刊現代』6月23日号は通夜の写真を含めて、妻や野崎さんのプライべート写真を8ページにもわたってグラビアに掲載していた。
なぜその記者がそれほど深く食い込んでいるかというと、実はその記者は、野崎さんが生前、講談社から出版した2冊の著書のライターを務めた本人なのだという。前出の『週刊文春』6月28日号がその舞台裏を明らかにしている。
その記事によると、野崎さんの著書が一昨年暮れと今年4月に講談社から発売されているのだが、その企画を持ちかけ、ライターを務めたのが、その『フライデー』の契約記者なのだという。それらの著書は今回の騒動で増刷がかかり、2冊で8万部に達したとも書かれている。その印税についても記者は相当手にしており、また野崎さんからも生前、いろいろな便宜を受けていたという。
そして同記事によると、今回の騒動で、この記者が撮影した野崎さんの遺体の顔写真が『フライデー』に掲載されたりしているのを、野崎さんの会社の従業員は怒っているという。従業員によると「マスコミの取材は全て断っていたのに、彼は『俺の知り合いだから』と葬儀中に女性記者を中にいれた」「勝手に従業員の写真を撮るので、もう社内には入れないことにしています」とのことだ。また同記事によると最近は、妻もその記者に愛想をつかし、『フライデー』の担当は別の者に替わったとも書かれている。
そうなると『週刊現代』『フライデー』の食い込みぶりも今後どうなるかわからない。ただ6月25日発売の同誌7月7日号を見る限りでは、「紀州のドン・ファン一族の親族会議」と題してなかなか踏み込んだ記事を掲載している。それによると驚いたことに、妻の代理人弁護士は、メディア対策として雇われたものとされていたが、最近は妻の遺産相続の手続きにも動き出しているという。このままいけば50億といわれる遺産の3分の2は妻が相続することになるというのだが、他の親族は妻のそうした動きに激しく反発しているというのだ。
騒動は何となく第2幕に入った感があるが、行方を決するのは、捜査を続けている警察が今後どういう動きに出るかだろう。
疑惑報道を続けるマスコミに対して次々と訴訟を行って対抗したのは前述したように三浦和義さんが有名だが、その三浦さんに支援を仰ぎ、同様に相当数のメディア訴訟を行っているのが林眞須美さんだ。『創』はこの眞須美さんとも1998年の和歌山カレー事件当時から接触しているのだが、私が最初に彼女に会ったのは、同年9月、彼女がメディア対策のために依頼した弁護士の事務所でだった。
この和歌山カレー事件も、疑惑報道から逮捕まで、彼女の自宅を24時間報道陣が取り囲み、その集団的過熱取材が1審の判決文で言及されるほど報道のあり方がクローズアップされた。私は当時、何度も眞須美さんの自宅を訪れたが、私が家を出る時も、張り込んでいた報道陣が駆け寄ってきた。家族が出入りするたびに一斉にフラッシュがたかれ、子どもが怯えて学校にも行けなくなったほどだった。
今回のドン・ファン怪死事件も、報道のあり方をめぐっては議論になる可能性がある。だから報道についてはしっかりとウォッチングしていきたいと思う。
ちなみに三浦和義さんと私は長いつきあいで、林真須美さんの支援などでもよく連絡をとりあっていた。2008年に彼が後にサイパンで拘束された時も『創』に独占手記を寄せてくれた。当時は忙しくてなかなか面会にも行けないうちに、アメリカに移送された三浦さんが謎の自殺を遂げた時の衝撃は今でも忘れられない。真須美さんとの20年以上にわたるつきあいについては、報道のあり方も含めて『和歌山カレー事件 獄中からの手紙』(創出版)という書籍にまとめたが、三浦さんについては1冊の書籍も作れないまま永遠の別れになってしまったことも、編集者としての責務を果たせなかったような後悔の念を引きずったままだ。