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平成の高校野球10大ニュース その6 2004〜06年/駒苫黄金時代と早実と(前編)

楊順行スポーツライター
2005年夏、駒大苫小牧連覇の立役者となった田中将大(写真は06年)(写真:岡沢克郎/アフロ)

「去年の優勝以後……」

 2005年8月20日、第87回全国高校野球選手権の決勝。駒大苫小牧(南北海道)は京都外大西を5対3で降し、57年ぶりに夏2連覇の偉業を達成した。香田誉士史監督は、お立ち台で言葉を詰まらせ、けっこう長い間を置いて続けたのは、

「辛かったり、苦しかったり、葛藤もありました」

 ちょっと時代をさかのぼろう。香田監督が駒苫に赴任したのは、1994年11月のことだ。直前までは母校・佐賀商のコーチ。その年夏の佐賀商は、甲子園を開幕初戦から勝ち上がり、決勝では樟南(鹿児島)を終盤の満塁本塁打で降して、佐賀県勢初の全国制覇を果たしている。香田監督も、その快挙に貢献したわけだ。一方、駒大苫小牧。学校創立と同時の64年に創部した野球部は、3年目の66年夏、当時の最短記録で甲子園に出場している。ただこのときは1回戦で大敗(3対13横浜一商・現横浜商大、神奈川)し、その後は長く低迷が続いていた。84年以降は、北海道大会にすら出場できていない。

 この危機に、苫小牧市の僧侶であり、初代、そして初出場時の監督だった荒沢義範氏が、野球部で2年先輩だった駒沢大・太田誠監督(当時)に相談を持ちかけた。そこで、「オレの腹心をやる」と送り込まれたのが、当時24歳の香田監督だった。いまも、初めてグラウンドに立った日が忘れられない。部員たちはジャージに長髪という姿。ろくに挨拶もできず、練習は無断で休む。ユニフォームを着せようとしただけで選手の反感を買い、苫小牧近郊の中学をまわって有望選手をさがしても「駒大さん? 全道大会に出られるようにならないと……」と、門前払い同然だった。

甲子園どころか、北海道大会にも……

 かりにも、全国制覇したチームに携わった自負がある。そのたびに、屈辱をかみしめた。ただしその屈辱を栄養としたチームは着実に力をつける。96年夏には、13年ぶりに南北海道大会に進出すると、01年夏には初出場の66年以来、なんと35年ぶりに甲子園の土を踏んでいる。ただしこのときは、松山商(愛媛)に6対7の逆転負けだった。

 駒苫の年表に大きく書かれるべきは、03年、3度目の夏だろう。この年にはセンバツにも初出場しており、春夏通じて4回目の甲子園だった。1回戦。倉敷工(岡山)に8対0と大量リードしながら、4回の攻撃途中に台風10号の影響で豪雨が襲い、降雨ノーゲームに。翌日の仕切り直しは2対5で敗れ、大量リードで手にしかけた甲子園初勝利が幻となったわけだ。この試合を甲子園のスタンドで見ていたのが、当時兵庫・宝塚ボーイズの田中将大少年だ。つまり、田中が入学するまでの駒苫は、甲子園未勝利。失礼ながら、甲子園に出場はしてもなかなか勝てない、1回戦ボーイだったのである。それでも田中は「チームが一体となった緻密な野球が、自分に合っていると思った」と、北海道への進学を決意する。

 その田中が入学し、日本ハムが北海道に本拠地を移した04年夏のことだ。駒苫は、ふたたび甲子園にやってきた。「(1年前の敗戦は)ずっと重たいものがありました。勝たせてやれなくて悪かった、と選手たちに頭を下げた。あの悔しさを晴らすために、甲子園に来たんです」(香田監督)。当時のキャプテンだった、佐々木孝介(現監督)も、こんなふうに語っている。「(去年の)倉敷工戦は、代打で出て三振。悔しい思いをしていたので、あの負けから全国制覇を目ざしてやってきました」。

 宿舎には、前年倉敷工戦で敗れた3年生部員全員の連名の手紙が届いていた。ベンチ入り18人一人ひとりにあてた、熱いメッセージである。初戦(対佐世保工・長崎)の前日、佐々木は長い時間をかけて全文を読み、ナインに聞かせた。香田監督は、涙を流しながらその光景を見つめていたという。その佐世保工戦。すかっと晴れた青空そのままに、駒苫は7対3で快勝した。初出場から58年、長い低迷から脱し、一度は手にしかけた勝利を逃し、ようやくたどり着いた1勝だった。

1回戦ボーイが超ブランド校に

 ただし正直にいえば、04年の駒苫はノーマークもいいところ。なにしろ東北(宮城)にはダルビッシュ有(現カブス)、横浜(神奈川)には涌井秀章(現ロッテ)がいて、さらにセンバツを制した済美も強力打線と、優勝候補目白押しの大会なのである。だからわれわれ取材者にとって、駒苫の原稿の骨子は「昨年のノーゲームの悔しさを晴らし、よくぞ手にした記念すべき1勝」などというふうに固まっている。なにしろ、1勝したとはいえ次の相手は日大三(西東京)。01年夏には、当時の最高チーム打率で全国制覇した、超ブランド校だ。ようやく1回戦ボーイを脱却したばかりの駒苫とは、ちょっと格が違う。佐々木がいくら「全国制覇を目ざす」といっても、過去85回の大会で優勝旗はいまだ白河の関さえ超えておらず、駒苫の注目度もさほど高くない。

 たとえば、試合終了後の取材。通称インタビュー通路といわれるエリアで行うのだが、人気チームや注目選手がいると、記者連中でラッシュ時の電車ほどになる。だがようやく1勝した駒苫クラスなら、混雑はさほどじゃない。だから選手とも、雑談交じりでのどかに話すことができる。駒苫戦のスコアブックの余白は、「先輩からもらったお守りが北海道の決勝でぶっこわれた」とか「九州出身の監督は、いまだに北海道の冬に慣れていない」とか「北海道は夏休みが短く、もうすぐ2学期。勝ち残るほど、学校を休めます」とか、あまり原稿の役には立ちそうもないことだらけだ。それもこれも、駒苫がさほど注目されていなかったからだ。

 ところが、日大三に7対6と競り勝ってベスト8に進出すると、にわかにそうはいかなくなった。さらに、だれもが“いくらなんでも無理だろう”と思った準々決勝でも、涌井を打ち込んでまたも“超ブランド”の横浜を撃破。準決勝で東海大甲府(山梨)に勝つと、決勝では春夏連覇を目ざした済美と13対10という壮絶な打撃戦。チーム打率・448という新記録までおまけにつけて、北海道勢初めての全国優勝を遂げるのだ。名もない1回戦ボーイが、またたく間に頂点に駆け上がったのが04年の夏というわけである。

 05年も、準々決勝(鳴門工・徳島)の7回、1対6の劣勢から一挙6点を奪って逆転勝ちすると、準決勝では大阪桐蔭を延長10回で、決勝では京都外大西を撃破して、57年ぶりの夏連覇を達成する。そして翌06年も……早稲田実(西東京)との決勝引き分け再試合という名ドラマを演じ、なんと73年ぶりという夏の3連覇に肉薄するのである。

 そのことは次回にふれるとして、つくづく思うのだ。駒苫の道勢初の全国制覇、そして翌年の連覇。始まりが03年の降雨ノーゲーム、いや、もっといえば香田監督がジャージ姿に長髪の部員に仰天したときにあるというのは、なんとも劇的なんだよなぁ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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