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相模原事件・植松聖被告に1月末に接見し障害者に改めて謝罪するよう提案した

篠田博之月刊『創』編集長
植松被告に接見した横浜拘置支所(筆者撮影)

 2020年1月30日に相模原障害者殺傷事件の植松聖被告に接見した。元TBSの金平茂紀さん、『創』連載執筆者の雨宮処凛さんと一緒だった。

 私は1月14日にも接見しているが、本当は24日の被告人質問の前にも接見したいと思っていた。でも月刊『創』の締切時期でそうもいかず、次の接見がその日になった。

 14日の接見時に植松被告と2つのことを話した。ひとつは、彼が初公判で自傷行為を行って謝罪の意思表示をしたつもりだったのが、社会に伝わらず「法廷で暴れた」とされていたため、もう一度きちんと謝罪した方がいい、と提案したこと。

 もうひとつは、植松被告が弁護方針に反発し、弁護団を解任したいなどと言っていたので、今からそれは無理だから、被告人質問で自分は弁護団と意見が違うことを表明したらよい、とアドバイスしたことだ。

 この時の接見内容については、下記の記事に書いた。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20200114-00158929/

翌朝小指は噛みちぎったー相模原事件・植松聖被告が面会室で語った驚くべき話

 植松被告の関心は弁護団との確執のほうにあって、結局、1月24日の被告人質問では、冒頭で彼が、弁護団の方針に反対の意思を表明した。それについては下記の記事に書いた。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20200126-00160441/

相模原事件裁判の被告人質問で植松聖被告が語った証言の気になる点

1月の法廷でスルーされた「新たな謝罪」

 私はと言えば、そのふたつのうちのもうひとつ、「謝罪」の方が大きな関心事だった。というのは、それまで植松被告は、事件を起こして結果的に巻き込むことになった被害者家族や遺族に対しては何度も謝罪の意思表明をしてきた。ところが、14日の接見の時には、明確に、謝罪の対象に、殺傷した障害者も含めると語った。それはその後に接見した新聞社などにも語っていたようだ。

 このことはかなり大きな意味を持っている。家族や遺族にだけ謝罪するというのは、健常者と障害者を二分法で線引きしてきた彼の考えに基づくもので、例えばナチスが障害者を虐殺したのは認めるがユダヤ人虐殺には反対だという論法と同じだ。

 しかし、そうでなく殺傷した障害者にも謝罪の意思表示をすることは、これまでの植松流二分法とどう整合性をつけるのか。彼は被告人質問でも一貫して、自分のやったことは正しかったと証言しており、そう言いながら殺傷した障害者に謝罪するというのをどういう言葉で行うのか。それが当初、被告人質問に対する私の大きな関心事だった。

裁判が続いている横浜地裁(筆者撮影)
裁判が続いている横浜地裁(筆者撮影)

 

 でも結局、植松被告は、被告人質問では、そういう謝罪の意思表明を行わなかった。弁護団への反対意見表明は行ったのだが、むしろ私が関心を寄せていたもうひとつの、「新たな謝罪」はスルーしてしまったのだった。

 恐らく、それは「自分のやったことは間違っていない」という主張とどう整合性をつけるかなど、彼なりに悩んだ結果だったのではないか。私はそう思った。

 だからもう一度、接見して、植松被告の真意をただしたいと考えた。本当なら被告人質問の前に接見して、そこをもっと詰めておけば良かった、という思いもあった。

植松被告は「わかりました」と同意した

 1月30日の接見では、第一番にそのことを話した。初公判での謝罪では、誰に何を謝ったのかが社会に伝わっていない、改めてきちんと謝罪したほうがいい。法廷でそれをやるというのが大事なことだ。そう言った。

 植松被告は「わかりました」と、意外なほどさらっと了解した。私はなおも念を押すように、幾つかの話をした後、再び同じ提案をしたのだが、彼はもう一度「わかりました」と述べた。

 

 私には以前も同じような経験があって、2004年の奈良女児殺害事件の小林薫元死刑囚(既に執行)とも、最終意見陳述で遺族に謝罪することを本人と確認していたのだが、実現しなかったのだ。

 その裁判の法廷には殺害された女児の両親が毎回傍聴に来ていたし、「今でも絶望からはいあがれない」と涙ながらに証言も行った。私を含め傍聴席にいた多くの人も涙を禁じえなかった。

 謝罪したとしても遺族が納得するわけではないが、法廷で顔をあわせているのだから、そこで面と向かって謝罪するのがいい、と私は小林死刑囚に提言した。

 当時、マスコミ報道では、小林死刑囚は反省もしておらず、謝罪もしていないとされていた。実情は少し違うのだが、法廷のような場で、遺族に対する謝罪を彼が表明していないのは確かだった。

 でも実際には法廷で彼が謝罪するタイミングは確保されなかった。一番大きな理由は、弁護人は最終弁論で、死刑反対をぶちあげており、「死刑になりたい」と言っていた被告人とずれがあったことだと思う。遺族に謝罪するだけでなく、死刑になってお詫びしたいと小林死刑囚が言うに決まっていたのを弁護人が回避したのではないかと思う。

 謝罪の言葉はその後、小林死刑囚が手紙に書いて、遺族側に届けられた。しかし、それは法廷で直接、遺族に謝るのに比べると説得力は全く違ってしまった。

 

 そういう過去の経験があったこともあって、植松被告には、面会室で話した謝罪の意思表明をぜひやってほしいと提案した。できれば弁護人が謝罪内容について少し踏み込み、植松被告がどんなふうに考えているのか聞きだしてほしいと思う。

 殺傷した障害者への謝罪と、やったことの正当性主張という彼の論理がどういうふうに語られるか興味深いが、以前から植松被告は自分の犯行について、本来は安楽死させるべきなのにあのような形になったことは本意ではない、という発言をしている。このあたりは、犯行動機に関わる重要な意味を持っている事柄だ。

 本当は24日と27日の被告人質問でそのあたりを突っ込んでほしかったのだが、実際には、植松被告の主張を一方的に開陳して終わってしまった。

  

被告人質問についての植松被告本人の評価

 ちなみに、その被告人質問についても、植松被告の感想や印象を接見の時に尋ねた。法廷で弁護人は、裁判の前に植松被告から長い手紙をもらったと語っていた。弁護人がベースにしたのは、2017年に被告から渡されたノート1冊分の「新日本秩序」と、今回の裁判前に送られた手紙だった。「新日本秩序」は、2017年夏には私のもとにも送られていた。

『創』編集部に届いた「新日本秩序」(筆者撮影)
『創』編集部に届いた「新日本秩序」(筆者撮影)

 私は接見時に、植松被告に「その2つ以外に君の考えを弁護人と詰めて話し合ったことはなかったの?」と尋ねたのだが、彼は「ありません」と語った。植松被告と弁護団の間で意思疎通があまりできていないことは知っていたが、私が「え、そうなの?」と言うと、植松被告は「でも、よく調べていたと思います」と答えた。被告人質問での弁護人の質問に対して、自分の言いたいことをきちんと俎上に載せてくれた、と評価したのだった。

 確かに弁護人は、大麻の話にもかなり踏み込んだし、例えば被告人質問で、環境破壊対策として「遺体を肥料にする計画」についてといった話にも踏み込んでいた。傍聴していた人は、いきなり「遺体を肥料にする」という話を聞かされて、「え?」と思ったろうが、実はこの計画は「新日本秩序」の最後の7番目に、植松被告があげていたものだ。弁護人は、植松被告の主張の集大成ともいうべき「新日本秩序」をかなり丁寧に法廷で取り上げたのだった。

 ただ、その植松被告が評価した法廷でのやりとり全体を、私は少し別の見方で受け止めた。

 イルミナティカードを読み解いて、遠くない将来に日本が滅亡することを知り、さらにそれを救済するのは自分だと確信したという植松被告の犯行に至る思いを法廷で再構築してみせた弁護団の狙いは、被告人自身とは違い、大麻精神病による妄想として、最終的に「心神喪失による無罪主張」に落とし込もうとしているのではないか。

 法廷でのやりとりを聞いていて、私はそんな気がした。

 実際、弁護側が提示した被告人の友人たちの証言などを総合すると、植松被告が犯行に向かっていく経緯を、何らかの病気の進行と考えるのも、全くの的外れでもないような印象を受けた。

 検察側が、植松被告の犯行の周到さを立証しようとしたのに対して、弁護側の提示した証拠や証言を全部見聞きしてみると、私も事件に対する印象が変わった。植松被告が、それまでの友人たちに愛された「さとくん」から、約1年間で全く異なる怖い人物に変貌していった様子を、弁護団はこれでもかというほどの友人・知人の証言をもって提示していた。

 それら全体を聞いてみると、これまで2年半にわたって植松被告と関わってきた私にとっても、印象が変わるのを認めざるを得なかった。

国家からの回答が措置入院だと考えた

 さて、1月30日の接見で私は、2つのことを確認したいと考えていた。一つは新たな謝罪に対する植松被告の考えだが、もう1つとは、2016年2月の衆院議長公邸への手紙から措置入院へと至る過程で、具体的に植松被告が何を考え、どう変わっていったかという話だ。

 植松被告が具体的に犯行を決意したのが措置入院中だったことは、2018年に刊行した『開けられたパンドラの箱』(創出版)で本人が語っているが、それが具体的にどういう経緯だったのか、法廷でのやりとりでこれまでよりかなり鮮明に浮かび上がってきた。

 例えば被告人質問でのこんなやりとりだ。

弁(弁護人)措置入院した時のことを覚えていますか?

被(被告人)ここから出られないかもしれないと心配になりました。

弁 どんな部屋でしたか?

被 トイレと監視カメラしかついてない部屋でした。

弁 あなたは「気づいた」という言葉を使いましたね。

被 はい。

弁 何に気づいたんですか?

被 重度障害者を殺した方がいいということ。

弁 重度障害者を殺害した方がいいという考えはもう少し前から持っていた?

被 殺害とまでは考えていませんでした。

弁 重度障害者を安楽死させた方がいいと気づいたのは措置入院中ですか。

被 措置入院中に思いつきました。

弁 気づいた?

被 気づいたので自分でやるべきだと思いました。

 これはかなり重大な証言だ。でもその前に衆院議長公邸に届けた手紙で既に植松被告は重度障害者の殺害を語っていたではないか。その手紙については、その後の検察官による質問でこんなやりとりをしている。

検(検察官) 意思疎通のとれない障害者を殺しますと提案して、政府から反応があると思いましたか?

被 それは措置入院という反応だと思います。

検 措置入院というのが国の結論だと思ったのですか?

被 はい。

検 国としては許可してくれないというのがわかった。

被 はい。

検 でも役に立ちたいし、自分が気づいたから自分がやろうとした。

被 はい。

 つまり植松被告は、自分の主張を国に提示したのに拒否された。それが措置入院、つまり障害者を殺害することを提案した自分を逆に精神病棟に閉じ込めるという仕打ちだと認識し、それが国の回答だと理解した。その結果、自分でやるしかないと犯行を思いついた、というのだ。

殺意がどの時点で具体的に生じたのか

 2016年の2月頃の経緯をこんなふうに明確に跡付けた説明は私も聞いていなかった。だから、30日の接見ではぜひ本人にその真意を確認したいと思った。

「措置入院中に独断で決行することを思いついたと言っていたけれど、それまではそこまで考えていなかったということなの?」

 それに対して植松被告はこう言った。

「措置入院中に、自分でやらなければいけないと思いました」

 このあたりは、殺意が具体的に生じたのはどの時点だったのかという大事な点なのだが、面会室での植松被告の説明は、少し曖昧だった。

「やったことは今でも正しいと思っているの?」

 その質問に植松被告は

「考えは正しいと思います」

 と答えた。

 そこで私が「でもやり方には問題があったと思っているんでしょ」と尋ねると、彼は「かもしれない」と答えた。

 そんなふうに曖昧な答え方をするのが彼の特徴だ。

 

 例えば死刑判決についてどう考えているのかとの質問にはこう答えた。

「死刑になるつもりはないですが、死刑判決が出る可能性はあると思っています」

 これは前述した、殺傷した相手への謝罪という問題とも関わるのだが、植松被告は既に死刑判決を覚悟している雰囲気だ。現時点では控訴もしないと言っている。

 この3年近く、植松被告は少しずつ変わっていった。前回の接見の時、「いや基本的には変わっていないのです」と彼は強調したが、2年半つきあってきた私から見ると、やはり変わっていったと思わざるをえない。

 もちろん「犯行の正当性」を主張することは変わっていないし、そこを変える気はないと思うのだが、措置入院を国からの拒否回答と受け止めて単独で犯行を犯す決意を固めていったという説明など、2016年に入ってから犯行までの半年間、彼がどんなふうにして凄惨な犯行に突っ込んでいったのかを考える大事な事柄だ。

 事件の解明のためには、これまで語られてきた点と点を結んでもっときちんと跡付けていく必要があると思う。

 裁判はまだしばらく続く。事件が少しでも解明されることを切に望みたいと思う。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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