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5月25日公開!『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』はとても重たい映画だ

篠田博之月刊『創』編集長
C「ゲバルトの杜」製作委員会(ポット出版+スコブル工房)以下同

 代島治彦監督の最新作『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』は、とても重たい映画だ。テーマが新左翼諸党派の内ゲバという重たいものというだけでなく、映画の冒頭に早稲田大学で実際に起きたリンチ殺人事件を再現したドラマが描かれ、観ているだけで重たい気分になる。ただ映画の後半は、前作の『きみが死んだあとで』で代島監督が行ったような当事者への徹底取材の映像が映される。冒頭に描いたドラマは、革マル派による暴力だが、その後は中核派によって革マル派メンバーが殺害された事件など、内ゲバをめぐる凄惨な状況が描かれていく。

 代島監督は以前の『三里塚のイカロス』などでも、革命をめざしていた党派が暴力の連鎖に陥っていくのはなぜなのかという問題を提起していた。1970年代、連合赤軍事件や内ゲバの頻発で新左翼運動は行き詰まっていく。

 映画は5月25日より渋谷ユーロスペース始め全国公開される。公式ホームページは下記だ。

http://gewalt-no-mori.com/

 月刊『創』(つくる)の連載で元日本赤軍の重信房子さんは、この映画についてのこういう感想を書いている。なかなか良いコメントだ。

元日本赤軍・重信房子さんのコメント

《3月中旬に代島治彦監督に招かれて『ゲバルトの杜 ~彼は早稲田で死んだ~』の試写会に行きました。大変衝撃的な事件が今では老齢となった当事者の証言を中心に、丁寧に事実を検証して描かれていました。抽象的な党派批判、内ゲバ批判ではなく、血の通った当時の人間たちのやむにやまれぬ様々な理由の闘いの切迫感を浮かび上がらせていてとても心に響きました。最後の方で当時革マル派として川口君を死なせた学生の一人、佐竹さんという人の「転向謝罪文」が掲載されていてその中で「いのちの尊厳無しに人間を解放することは出来ない」と痛苦の反省の言葉が記されていて胸を衝かれました。これは「転向」ではなく「良心の告白」です。「べき論」に拘泥し、こうしたまともな神経をのびのびと育て得なかったところに私たちの時代の闘い方の欠陥がありました。

 全く違う状況下ですけれど、「革命家である前にヒューマニストであること」と肝に銘じていたパレスチナの戦士たちと共に闘っていた時代と重なりました。

 米欧、シオニスト、イスラエルの巨大な敵に物理的にはちいさなゲリラ勢力が勝つためには政治的対峙を創り出す必要がありました。戦士がヒューマニストであるということは軍事暴力の限界や否定面を知り、それでも武器を取らざるを得ない現実を引き受けることでもありました。

 解放と革命は差別抑圧の苦しみと怒りの中から人としての尊厳を求めて闘っており、希望を開くものでなければ勝利し得ないと、パレスチナで戦いつつ学んだことを想いつつ映画を観ていました。

「どんなことがあっても生きろ!」というパレスチナの声と同じように、この映画の中にも監督はその思いを込めているように思います。》

 以下、代島監督へのインタビューを掲載しよう。

三里塚闘争を追った映画で感じた疑問

代島 これまで新左翼の内ゲバについてジャーナリストの立場からきちんと書かれているのは、立花隆の『中核VS革マル』だけですよね。この本は1975年までで終わっているわけですが、その後も凄惨な内ゲバが続いて、多くの死者が出るわけです。しかも当事者たちはそれぞれの機関紙で相手に反革命のレッテルを貼って攻撃しあうだけでした。1972年に起きた連合赤軍事件についてはこれまでいろいろな考察がそれなりになされているけれど、内ゲバについてはそれがほとんどなされていない。この映画を作ろうと思ったきっかけは、樋田毅さんの著書『彼は早稲田で死んだ』を読んだことですが、正義を背負った暴力の連鎖をなぜ断ち切れなかったのか。それはきちんと解明されなければいけないと思っています。

 僕はこれまで『三里塚に生きる』『三里塚のイカロス』『きみが死んだあとで』と、その時代の当事者の証言を紡いで映画にしてきました。最初の『三里塚に生きる』は、大津幸四郎さんと共同で監督した作品でしたが、成田空港建設反対運動を取材して撮影したあの映画のなかで一番深く分け入っていったのが、1971年の第二次強制代執行の中で起きた東峰十字路で3人の機動隊員が農民と学生のゲリラ部隊に殺され、その責任を取るように青年行動隊員の1人の三ノ宮文男が自殺したという事件でした。その三ノ宮文男という死者のことを青年行動隊員の仲間は全員が今でも自分の中に抱えて、三ノ宮に謝りながら生きていた。

 もちろん農民が空港建設阻止をめざして闘う正当性、権力の横暴に対して闘う姿には正しい部分があるんですよ。でも、暴力が、敵対関係の中である一線を越えていく。人間がやっちゃいけないことをやってしまった時に、闘い自体の合目的性が崩れていく。それを僕たちは『三里塚に生きる』で描いたんですね。

『三里塚のイカロス』の場合は、三里塚に支援に入った学生たちが、農民を助けよう、権力の横暴を許さないという、正義を背負って闘い始めたわけですけども、それが管制塔占拠事件、成田空港部分開港のあたりから変わっていくんですよ。逆に支援党派が農民を縛って闘争をやり続けさせるわけです。そのうちに中核派が、もう一方の勢力になった第四インターにゲバルトをかけて、死者こそ出なかったんですけど、車椅子生活になったりするような重傷者を出すわけです。また、農民が国と和解する交渉を始めるという時になると、その和解交渉を担う収用委員会の会長だった弁護士を襲って、鉄パイプでメッタ打ちにして半身不随にするんですよ。その弁護士が15年後に入水自殺するんですけど。要するに、最初は希望に向かって運動が始まるんですけど、どっかで腐ってくるんですよ。それは何なのだろう、とずっと考えながらあの映画を作ってたんですね。

『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』よりリンチ殺害現場
『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』よりリンチ殺害現場

運動がなぜ暴力の連鎖に陥っていくのか

代島 『きみが死んだあとで』は、山﨑博昭という、京大1年生の若者が中核派にオルグされて入党して、初めて行った羽田弁天橋での第一次羽田闘争ですね、67年10月8日で、死んじゃうわけですよ。具体的には国家権力によって殺された山﨑博昭の死が当時のノンポリも含めた若者の闘争心に火をつけて学生運動が盛り上がっていくんですね。ところが、70年代に入って、運動が行き詰まり、国家権力に反抗できなくなった時に、本格的な内ゲバが始まる。武器を持って権力に対して立ち上がろうとしたはずなのに、どうして連合赤軍事件のような同志へのリンチ殺人や内ゲバ殺人が起こるのか。

 青空に向かって伸びていこうとした運動に暗雲が垂れこめ、時代の空気まで鉛色に染まっていくという、それがどうしてなんだろうという疑問ですね。一番考えなきゃいけないのは、なんで途中から腐っちゃったり鉛色になっちゃったりするのかということなんです。

 僕はその後の世代ですが、渦中にいたら僕も飛び込んでいたかもしれない。『きみが死んだあとで』の中でも告白していますけど、渦中にいたら僕も青空に向かって走り出してたんだろうなって思うんです。でも、鉛色の腐った状態まで見届けちゃうと、青空へ向かっていた部分だけ語り継いで後半部分を封印しちゃうというのは、歴史を隠蔽することじゃないか。もしかしたら歴史を書き換えてしまうことかもしれない。そう思ったんです。

 連合赤軍のリンチ殺人と浅間山荘銃撃戦に関しては、その後当事者が本を書いたり、いろいろな事実が明らかになって、ある意味、その全体像が歴史化されてますよね。日本の60年代から70年代にかけての【集団的記憶】の中にちゃんと連合赤軍事件の記憶は入ってるんです。ところが内ゲバは入ってないんですよ。内ゲバだけは、当事者もそうだし、同世代の人たちも語り継いでいない。だから【集団的記憶】にもなっていない。でも100人以上の内ゲバで死んだ若い人たちは何のために死んだの? 記憶にも残されないその死者たちはあまりにもかわいそうじゃないのかということですね。

 今回、川口大三郎の死はその代表みたいなことで描きましたけど、石田英敬さんの親友だった四宮俊治とか、内田樹さんの同級生だった金築寛とか革マル派側とされる死者もしつこく描いたのは、彼らは何で死んだの?という疑問からです。川口大三郎君事件のことも、僕は樋田さんの本を読むまでは、詳しくは知らなかった。樋田さんたちの早稲田解放闘争、革マルを追い出して学内を民主化しようという運動の中身はほとんど知らなかったのですね。樋田さんたちは、内ゲバとか暴力的なことはもう終わらせようとしたわけですが、樋田さんたちのグループ自体が襲撃されて、暴力に敗れていく。樋田さんは本の中でそういうこともちゃんと書いているし、50年後に本にまとめたというのは、それだけの時間が必要だったということですよね。

『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』より
『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』より

 この映画に出てくれた他の証言者も50年経って、初めて喋ってくれたんですね。東大生の引越しの最中に中核派に襲われて友達2人を目の前で殺された石田英敬さんは本当によく出演してくれたと思います。僕が石田さんのことを知ったのは、四方田犬彦さんの『歳月の鉛』という本に石田さんの事件のことが書いてあるんですよ。四方田さんは石田さんに、本に書いていいかと会いに行き、喋ってもらったことを書いてるんですけど、僕もそれで知ったんです。

 もしかしたら石田さんはもう東京大学の教授も退官されたし喋ってくれるかもしれないと思って、こういう映画を作るんだけどということで、東大のキャンパスでお会いしてカメラなしで3時間以上喋りました。その後撮影を承諾していただき、4時間くらいお話を収録。映画ではその20分の1ぐらいしか使ってないんですけど、その後の人生も含めて、やはり長い物語がありました。

「僕の大学時代は暗黒だった」という言い方を四方田さんも石田さんもしますけど、その真っ暗闇の中にも一筋の光がある。人間はすごく愚かだけれども、捨てたもんじゃないところもあるんだよというところを僕は描きたかったんです。内ゲバの映画だと暗黒だけの映画じゃないかと思われるかもしれないけれど、それだけの映画にはしたくないと思いました。

最初に短編劇を観せてそれを解体していく

――今回の映画は、基本はドキュメンタリーですが、冒頭でリンチ殺人の現場を再現ドラマのように描き、鴻上尚史さんがそれをどう演出したかというメイキングも映画の一部にしているわけですよね。

代島 僕も鴻上さんも、実際に暴力を振るったことはないしリンチをしたこともない。だから川口君がリンチで殺されたといってもリアルにわからないんですよ。なおかつあの密室の中にいた人で証言してくれる人はひとりもいなかったんです。だから当時の資料をもとに、どんなことだったのかを想像力をたくましくして描いていく。最初に短編劇をバーンと観せたあとに、それを解体していくことで、内ゲバとは何かというテーマを考えていく。そういうドキュメンタリーの構造を考えたんですね。

 映画の中で使っていますが、一般学生が立ち上がった様子を8ミリフィルムで記録した映像が残ってたんですね。これはテレビ映画芸術研究会という文学部のサークルの人が撮った映像で、プライベートでは見せることはあったみたいですけど、これまで公になることはなかったんですね。映画の中に自治会室に何度も川口くんの救出に行く学生が出てくる。映画の中で証言してる二葉幸三さんという人です。実は、彼がテレビ映画芸術研究会のサークル員なんですよ。川口くんが拉致される場面を見てるから助けに行くんですが、それがサークルの部室の目の前の階段なんですよ。助けに行って追い返されて戻ってきてまた行って戻ってきたら、革マル派の活動家がダーッと追いかけてきて二葉さんを殴ろうとしたそうです。それを部室の中にいて見ていた亀田博さんという人が止めようとして、間に入るんですよ。で、殴られたのは亀田さん。その亀田さんと仲間が撮った8ミリフィルムなんです。

 そのフィルムには、特に11月13日の本部キャンパスで行われた3000人以上の一般学生が集まって革マル派の幹部を糾弾するというシーンがあります。演台の上に田中敏夫という当時の文学部の自治会委員長が出てきて、一般学生に糾弾されている。映像は音が入ってないのですが、そのシーンだけじっと見てると、田中敏夫って人もなんだか無残だなと思えてきました。小突かれて、そこにひざまずかされて。そういう意味では、まだ言葉の暴力だし、彼を糾弾するのは当然なんだけれど、そこで正義を背負った暴力の反復がすでに始まってる感じにも見えるわけです。

 僕はその田中さんが糾弾されてひざまずいてうつむくポーズを取るシーンを前半と後半で2回使っています。同じシーンが1回目と2回目に出てきた時に、見る人の中でどう見方が変わっていくか、ということも、映画の構成の中で重要なことのひとつなんです。そういう意味で反復の映画なんですけど、反復された時に、最初に観た、目も背けたくなるような暴力の短編劇と、最後に2回目に出てくる同じ短編劇のシーンが、観ている人にどう見えてくるか。その心の動きみたいなもの、心を揺さぶられるというか、観た人が自分で考え、自分で何かを想像したくなる映画にしたいな、と思ったんです。

 ドキュメンタリー、記録映画っていろいろありますけど、現在進行形でものすごいことが起こった時、悲しいことがあったり笑えることがあったりすると、感情を揺さぶられながら観ていける。過去の出来事だけれど、それでもやっぱり心が動くような、何かを想像したくなるようなドキュメンタリーにしたいと思うんです。単なる記録を並べただけでは駄目だなというのは、これまで作ってきていつも思うんですね。

短編劇は鴻上尚史さんがシナリオを書いた

――短編劇の部分は鴻上さんに任せた感じなんですか。

代島 そうですね。もともと樋田さんの本を読めと言ってくれたのは鴻上さんなんです。『きみが死んだあとで』の上映後のトークショーで鴻上さんと喋ってる時に鴻上さんが「すっげえ早稲田の面白い本があってこの本を題材にしたら代島さん、内ゲバが撮れるから次は内ゲバの映画を作ってください」と言われたんです。僕は、内ゲバについては当事者は誰も証言しないから作るのは無理ですってその時答えたんですけど、そのトークショーの会場にたまたま樋田さんがいたんです。トークショーが終わった後に客席から本を持ってきて、「代島さん読んでください」って渡された。それを読み終わって、まず樋田さんのところに「この本をベースにした映画を作っていいですか」と大阪まで頼みに行ったんですよ。その1週間後ぐらいに鴻上さんの事務所に行って「短編劇を作りましょう。今度の映画はドラマがないと成り立たないと思う。ドラマを最初にバンと観せてその後ドキュメンタリーで解体していくっていう映画を作りたいんだ」と。その時にそういう構想がもう僕の中で固まってたんですね。

 ただ、短編劇に関しては、鴻上さんは演劇の人ですから、最初の打ち合わせでは映画の中で演劇を作るというイメージを持っていました。でも、短編劇を平たく舞台で撮っても多分迫力ないだろうからと、最終的に鴻上さんがシナリオを書いて劇映画のスタッフを配置して撮るということになったんですね。

 短編ドラマでなく、抽象的に舞台でやった場合は、もうちょっとショックが少ないゆるい感じになったと思います。芝居を撮るわけですから。ただ芝居を撮るというイメージで考えてたのは、鴻上さんが稽古でどうやって演出していくかという過程が一番大事だと思ってたんです。

 僕たちはやっぱりその時代とかその世代に影響を受けて育ってるから、鴻上さんが作る芝居、僕が作る映画はやっぱりその時代のもの、鴻上さんのは全部じゃないですけど、僕の場合はずっとその時代のものを作ってきた。あの時代は何だったのか、特に連赤や内ゲバがなぜ起きてしまったのか、みたいなことですね。鴻上さんが肯定的にあの時代を描いてるのは『僕たちの好きだった革命』という、中村雅俊が主演で、当時の高校生が今の高校にタイムスリップしちゃうみたいな話ですけど、これは肯定的ですね。『不適切にもほどがある!』みたいなドラマが今ありますけど、昭和の高校生が、それと同じように今の高校にタイムスリップして高校改革を始める。

 最近『アカシアの雨が降る時』っていう芝居を鴻上さんが書いてますけど、これは72年ぐらいの相模原戦車輸送阻止闘争を背景にしています。かつて学生運動をしていた女性が倒れて、息子が病院に駆けつけると、母の精神は20歳の女子大生に戻っていた。現在から過去に、1972年にタイムスリップする物語です。

 そういう意味で言うと、この映画も現在から過去へ、1972年へタイムスリップするドキュメンタリーみたいな感じの演出はしているんです。『創』でも特集したと思いますけど、『福田村事件』は100年前のことだから劇映画でしかできないと森達也さんが劇映画にしましたけど、僕はやっぱりドキュメンタリーが好きなので、例えば関東大震災の朝鮮人虐殺の問題もドキュメンタリーで描けるんじゃないかという気持ちは今でも持ってます。ただ『福田村事件』でやった森さんの手法は、面白かったと思います。僕の今度の映画は、ドラマとドキュメンタリーを混ぜた、その作り方がどう受け止められるでしょうか。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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