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明智光秀の肖像画は、本当に本人を描いたものなのだろうか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀。(提供:アフロ)

 現代でも、マスコミが写真を取り違えることは珍しくない。明智光秀と言えば、有名な肖像画が知られているが、それが本当に本人を描いたものなのか考えることにしよう。

 当たり前だが、我が国の中世には写真がなかった。代わりに肖像画は残っているが、源頼朝、足利尊氏、武田信玄のものは、今も本当に本人を描いたものか疑問視されている。教科書などでは、はっきりと当人を描いたと明言しないか、載せないこともある。

 明智光秀の肖像画は、冒頭に掲げたイラストのようなイメージである。武将としては弱々しく、壮年期の頃を描いたものだろうか。光秀は連歌や茶に通じた教養人で、主君の織田信長から暴力を振るわれたことがあったので、何となくイメージとして合っているように思える?

 光秀の肖像画を伝えるのは、大阪府岸和田市に所在する本徳寺である。本徳寺を開いたのは、臨済宗の僧侶の南国梵桂である。一説によると、南国梵桂は光秀の嫡男・光慶と同一人物とされているが、確証がなく疑わしいといえよう。

 光秀の肖像画は、添えられた賛(三住妙心蘭秀叟の執筆)によると、慶長18年(1613)6月6日に完成したことが判明する。とはいえ、肖像画には光秀が描かれたとは明記されておらず、戒名の「輝雲道琇禅定門肖像」が一つの手掛かりになる。

 「輝雲道琇禅定門肖像」の「輝」は「光」、そして「琇」は「秀」のことで、合わせて「光秀」となり、像主は光秀であるとされてきた。いずれにしても、慶長18年(1613)の成立でもあり、光秀を直接見て描いたのか大いに疑問である。

 同寺の光秀のものとされる位牌には、「当寺開基慶長四己亥」と書かれており、光秀が慶長4年(1599)に本徳寺を開基したとある。したがって、光秀は天正10年(1582)6月の山崎の戦い直後に死んでおらず、生き延びた証拠とされているが疑わしい。

 つまり、私たちは本徳寺所蔵の光秀の肖像画が本人を描いたものと思っていたが、どうしても疑問が残る。光秀とは、別人の可能性もあろう。この点については、今後も追求されるべき課題と思う。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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