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【深掘り「鎌倉殿の13人」】生前の源頼朝が怨霊に憑りつかれたという噂の真偽

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝の墓。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、ついに源頼朝が亡くなった。一説によると、生前の頼朝は怨霊に憑りつかれていたといわれているが、その点を詳しく掘り下げてみよう。

■源頼朝の死

 建久10年(1199)1月13日、源頼朝は亡くなった。とはいえ、その死因は史料によって異なっている。後世に成立した『百練抄』には、単に「所労」(病気)と記すだけである。頼朝の死因を「所労」とするのは、『明月記』や『業資王記』も同じである。

 『猪熊関白記』には、「飲水」の重病と書かれている。「飲水」の重病とは、喉が渇き尿が出にくくなる病気とされ、一般的には糖尿病であるといわれている。「飲水」の重病の原因は、過度の食事や飲酒、女性との過度の交わりであるという。

 一方、『吾妻鏡』には、頼朝が亡くなる前年に相模川の橋供養(神奈川県茅ヶ崎市)に出掛けた際、図らずも落馬してしまい、そのことが原因で翌年に亡くなったと記している。橋供養は北条政子(頼朝の妻)の妹が亡くなったので、夫である稲毛重成が執り行ったものだった。

 現在は、上記の諸説をミックスして、頼朝は糖尿病で疲労困憊気味だったにもかかわらず、無理をして橋供養に参列した。その帰りに気を失って落馬し、そのことが原因で亡くなったという説も提示されている。いずれにしても、正確な頼朝の死因はわからない。

■頼朝は怨霊に悩まされたのか

 頼朝の死因には謎が多いが、後世に成立した『保暦間記』には、怨霊が原因であったと書かれている。以下、その概要を書いておこう。

 建久9年(1198)、頼朝は相模川の橋供養(神奈川県茅ヶ崎市)に出掛け、その帰りに八的ガ原(神奈川県藤沢市)に差し掛かった。すると、すでに死んだはずの志田義広、源義経、同行家らが姿をあらわしたが、頼朝はここを通過した。

 次に、稲村ケ崎(神奈川県鎌倉市)に到着すると、10歳くらいの子供が海上に立っていた。子供は「あなたを随分と探していたが、今ようやく見つけることができた。私が誰かわかるか?西海に沈んだ安徳天皇だ」と言うと、姿を消したのである。

 あまりの出来事が続いたので、さすがの頼朝も帰着後に病に伏せ、翌年1月13日に亡くなったというのだ。これは老死ではなく、平家の怨霊が死因であり、頼朝がたくさんの人々を殺したからだという。平家の怨霊が義経らや安徳を頼朝の面前に誘い出したということになろう。

■むすび

 頼朝の死因が平家の怨霊であるとは、今となっては認めがたい。単なる迷信であるが、当時の人々は怨霊を信じていた。頼朝はライバルとなる人々を次々と殺したので、その怨霊が復讐したと皆が思ったのだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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