震災と原発事故から2年 小さな「ちがい」が大きくなった
ロンドン在住の若手映画監督、三宅響子さんが東日本大震災と福島第1原発事故をテーマに制作したドキュメンタリー「波のむこう 浪江町の邦子おばさん My Atomic Aunt」が日本や英国、オランダ、スウェーデン、ベルギー、カナダ、イスラエルの7カ国で放映され、大きな反響を呼んでいる。来年はドイツでも放映される予定だ。自らも警戒区域に同行した三宅さんは「震災から2年がたって被災地と東京、原発立地町村と周辺町村、被災家族の世代間で『ちがい』が段々大きくなっています」と語った。
――震災と原発から2年たって、変わったことは
「2年たったことで、最初は一丸となっていたところでも、小さな『ちがい』が段々大きな『ちがい』になってきました。世代間の『ちがい』もそうだし、原発の立地町村と周辺町村もそうだと思います。原発事故の前は立地町村が圧倒的に潤っていました。周辺町村は、そのおこぼれにあずかっている感じでした。周辺町村の一つで、作品の舞台になっている福島県浪江町でも、商店街が潤ったり、民宿が建ったり、間接的な恩恵を受けました」
「事故の際にも、立地町村の中には東京電力(東電)や国と太いパイプがあったので情報をもらったり、避難用のバスを送ってもらったりしたところもあったのに、浪江町には情報も避難の支援も来ませんでした。浪江町ではテレビのニュースを見ながら避難をし、情報をもらえなかったことで後手、後手に回って、高線量の場所に避難してしまいました。浪江町として一カ所に避難できれば、町のつながりを保ちやすいのに、高線量の場所に避難してしまったので、若い人がどんどん避難所から離れて行ってしまった。事故前からあった立地町村とその周辺町村の格差が事故後もどんどん広がって行っているように感じました」
「事故後も立地町村はいまだに福島第1原発から定収入があります。周辺の町村は税金を集めることもできず、町村として成り立っていくことができません。そういう差が、時が経てば経つほど広がって行きます。町の中でも世代間の差もあるし、家があったところの線量が高いか、低いかの差、津波にやられた人とやられなかった人、いろんな『ちがい』が段々と、人と人のつながりをへだて、町村の中での意見の『ちがい』に結びついているように感じました」
――『ちがい』とはどういうことでしょうか
「震災2年で目立ち始めたすれ違い、みぞが根本的に日本の原発政策につながっているように思いました。日本の原発政策は立地町村と周辺町村に格差をつけてやってきました。それが事故後も続いていると感じました。警戒区域の見直しの際にも、町村が別々に国や東電と交渉していたのも、その例かもしれません」
――東電なり国なりが意図的にみぞを作っているように感じられましたか
「どこまで意図的かわかりませんが、分断し、みぞを作ることで自分たちにとって都合が良いように物事を運んでいるような印象を受けました。映画を作るときにそういう思いや視点はありました」
――3、4年たったとき『ちがい』はさらに大きくなっているでしょうか
「今の時点ではわかりません」
――映像の中で、こうこうと輝く東京タワーのイルミネーションが東京の人たちがいかに無関心かを雄弁に物語っていました
「ドキュメンタリーには出てもらいませんでしたが、いろんな方にインタビューした際、いろいろと心に残るエピソードがありました。その一つが、町のために何かしたいと思う30歳ぐらいの建設業の男性でした。避難の際、お姉さんを頼って東京に出て来こられたそうです。事故直後で、福島ではみな大変な時でした。東京のこうこうと輝くイルミネーションの中に立ち、『ああ東京ではこうやって福島から送られてくる電気を消費してきたんだ。福島では天地が引っくり返るような大騒ぎなのに、そんな事もなかったかのように世の中は動いているんだ、と思いながら光の中に立っていました』という話をしてくれました。新幹線で1時間半の福島と東京の間にある大きな『ちがい』。福島県内でも、避難している町村と避難を受け入れている町村との間で、思いのすれ違いも起こっています」
――なぜ浪江町を舞台に選んだのでしょう
「母の出身が浪江町で子供の頃よく行っていました」
――浪江町での原発計画は
「震災の当時はできる予定でした。延期を20数回繰り返している状態で、東北電力は建設を予定していました。数年後には着工開始の予定でした。しかし、2011年12月の浪江町議会で誘致決議を白紙撤回しました」
――浪江町の住民感情にどんな変化があったのでしょうか
「原発事故が起こって9か月で、全会一致で白紙撤回しました。良くも悪くも浪江町は原発マネーをあまり受けていませんでした。皮肉にも恩恵をあまり受けていなかったのに、被害は受けました。原発に依存していなかったので、ノーと言えました」
――なぜ、邦子おばさんに焦点をあてたのでしょうか
「いろんな方にインタビューをしました。NHKや英BBC放送の担当者といろいろ話をしました。親戚の邦子おばさんがもともと知っている人という距離の近さだけではなく、人柄、自分の感じていることを自分の言葉で話してくれる人だったのです。イギリスで放映するときに一番重要だと思っていたのがユーモアです。原発事故のドキュメンタリーというと、硬い政治的なものか、原発に翻弄されたかわいそうな人たちというイメージがあります。そうではなくて、生真面目な印象が強い日本人がこういう状況になっても笑う時には笑う、冗談を言うときには冗談を言う、それをやってくれるのが邦子おばさんだったのです」
――My Atomic Auntというタイトルの狙いは
「お涙頂戴のかわいそうな人の話ではなく、ユーモアをタイトルから示さないと外国では見てもらえないと思いました」
――原発事故で浪江町では救出作業にも影響が出たようですが
「3月11日の津波の後、暗くなり、がれきの下から声が聞こえる。どうしても助けたいが、暗くて見えない。生き残った人たちは後ろ髪を引かれる思いで、眠れる場所へ移動しました。必ず助けに来るからなと言って、そこを出たのに、次の日、原発事故でレスキュー隊が入れず、救出作業ができませんでした。津波で死ななかったが、置き去りにされたために餓死した人がどうもいるらしいとうわさになりました」
――浪江町が警戒地区から外れるのはいつごろですか
「来月から、一部地域は昼間だけ自由に入れるようになるかもしれません。町は、2017年に一部地域へ帰ることを目指しています」
――作品の中で邦子おばさんの息子さんは他の県に引っ越しました
「一緒に商売をしていた次男が別のところに避難して、そこでお店を始めました。邦子おばさんには言わないで家を買ってしまいました。若い人は、新しい地で再スタートすることができます」
――浪江町の人々の東電に対する思いは
「前に進めないので、憤りは大きいと思います。仮設住宅は5年も6年も持たない造りなので、一部では仮の町を造るという動きもあります。東電や国がやることを待っていたら何もできないので、自力で何かできる人は見切りをつけてどんどんやっていると思います。自力でやる場合は貯金を切り崩すしかありませんが、資金力や情報源がなかなかついてきません」
――国際共同制作はやりやすかったですか
「国際共同制作では、各国の放送局が制作資金を少しずつ出して番組を作ります。各国用に手直しして違うバージョンを放映する場合もありますが、この番組に関しては、ほぼ同じ内容のものを、日本でもヨーロッパ各国でも放映しています。原発問題に関心の高いドイツの放送局が最初に参加を表明してくれたのですが、そのあとがなかなか続きませんでした。制作会社もドイツ、私自身も日本を離れて暮らす日本人ということで、日本の視聴者がみたときに違和感のない作品を作れるか、不安がありました。どうしても日本の人にチームに入ってほしかったので、NHKが参加を表明してくれたときは、本当にうれしかったです。それが追い風になり、ちょうど2011年末の第一回東京TVフォーラムで各国の放送局にむけてプレゼンをする機会があり、BBCなどが参加することになりました」
――三宅さん自身が出演し、一人称で語っていますが
「ニュースの人たちは2011年3月の時点ですでに福島入りしています。資金力も違うし、スピードも違います。プラス私は新人監督でした。未知数の人に同じようなものを作らせる意味がないというので、自分にしかできないことは何かと考えると、どこまでもパーソナルで、どこまでも被写体に近い、そういうドキュメンタリーにすることで他の人には作れないものが作れると思ったのです」
三宅響子(みやけ・きょうこ)
東京大学、同大学院で西洋史を学んだ後、英オクスフォード大学で歴史学の修士号を取得。 専攻は魔女裁判。 短篇ドキュメンタリー「ハックニーの子守唄」が2011年ベルリン映画祭でベルリン・トゥデイ・アワード受賞、ロンドン映画祭、シドニー映画祭で上映された。長編第一作となる「波のむこう 浪江町の邦子おばさんMy Atomic Aunt」は同年の第1回東京TVフォーラム(TTVF)でベストピッチ賞、サンダンスの助成金などを受け、7放送局との国際共同制作作品として、2013年3月に7カ国で放映された。