【JNV】ジャズのエンタテインメント性を極めたキャブ・キャロウェイ
ジャズ・ヴォーカルを取り上げて、そのアーティストの特徴や功績、聴きどころなどを解説するJNV(Jazz Navi Vocal編)。今回はキャブ・キャロウェイ。
キャブ・キャロウェイの名前は、ジャズ史にとってデューク・エリントンと並べて刻まれるべきものであるにもかかわらず、なぜか日本での評価は高いとは言えない。
これはおそらく、彼が“歌って踊れるエンタテイナー”であることに原因があるのではなかろうか。日本では芸術と芸能を線引きして、差別的に扱う傾向があるからだ。
ジャズはもともと悪所の音楽として発展したルーツをもち、エンタテインメント性をたっぷりと含んでいる。しかし、公民権運動とリンクするようになった1950年代以降、アフリカン・アメリカンの優位性を示すためにジャズの芸術性を強調する傾向が強まってしまった。これが、エンタテインメント性の強いジャズを排除する流れを生んだようである。
日本でもこうしたアメリカでのムーヴメントの影響を受け、それまで“笑い”とともにあったジャズが“シリアスでなければ意味がない”と方向転換を余儀なくされた。しかし、大正時代の浅草オペラを代表するエノケンこと榎本健一や1960年代に活躍したクレージーキャッツなどはジャズをモチーフにしたエンタテインメントで一世を風靡したのだから、日本でももともとジャズは芸術ではなく芸能という認識が強かったはずなのだ。
そんな芸能を下に見る風潮が、このキャブ・キャロウェイへの評価につながっているのではないかという前置きはこのぐらいにして、彼の経歴をかいつまんでみよう。
1907年米ニューヨーク州ロチェスター生まれのアフリカン・アメリカン。キャベル・キャロウェイIII世という本名が示すように、両親は中産階級で、裕福な家庭環境で育ったようだ。
10歳になるころにメリーランド州ボルチモアに移住。両親は彼の音楽的才能に気づいて、歌のレッスンなど教育環境を整えた。クラシックを学ばせたかったようなのだが、彼自身はそれに従わず、両親が嫌うジャズに惹かれていく。姉のブランチが先にジャズ・シンガーとして売り出していたこともあり、彼も大学を中退して姉に合流するかたちでプロになった。シカゴを拠点としていた彼は、ツアーでこの地を訪れたルイ・アームストロングとも共演、彼からスキャットを習ったというエピソードが残っている。
大きな転機が訪れたのは1930年。ニューヨークに進出していた彼はバンドを転々とするうちにリーダーに納まったのだが、そのバンドが当時一世を風靡していたデューク・エリントン楽団の代役としてコットン・クラブに出演。そのときの実績を買われ、1931年から専属バンドに抜擢されたのだ。コットン・クラブは1920年にニューヨークのハーレムにオープンした高級ナイト・クラブで、ここに出演できることは一流黒人ミュージシャンである証しと言われた場所。ラジオによる生中継も行なわれていたため、キャブ・キャロウェイ楽団の名前は一躍全国区となった。
ヒット曲も生まれ、映画への出演なども増えて、彼の人気はますます高まっていった。1980年には映画「ブルース・ブラザーズ」への出演で注目を浴びたりするなど、常にアメリカのエンタテインメント界を牽引するポジションに身を置いていたトップ・ランナーだったが、1994年に脳梗塞で入院、これが原因で半年ほど後に86年の生涯を閉じることになった。
♪Cab Calloway- Kickin' The Gong Around
1932年、キャブ・キャロウェイがスターへの階段を上り始めたころのテレビ出演の映像。先輩のデューク・エリントン楽団が得意とした“ジャングル・サウンド”を意識したような演出だが、後半は独特のスキャットとダンスをまじえてオリジナリティを発揮している。
♪Jumpin Jive- Cab Calloway and the Nicholas Brothers
1943年公開の映画「ストーミー・ウェザー」の一場面。キャブ・キャロウェイ楽団のエンタテインメント性がたっぷり楽しめるだけでなく、共演のニコラス・ブラザーズのタップ・パフォーマンスも圧巻。
♪Blues Brothers- Minnie the Moocher (Cab Calloway)
映画「ブルース・ブラザーズ」の登場場面。この「ミニー・ザ・ムーチョ」はキャブ・キャロウェイが1931年に短編アニメ映画「ベティ・ブープ」のためにレコーディング、一躍スターとして認められることになった出世作だ。この曲のコーラス部分のスキャットから、彼には“ハイデホー・マン”というあだ名がついた。
まとめ
キャブ・キャロウェイが活躍したハーレムのコットン・クラブは、スタッフと出演者はすべてブラック、客はホワイトしか認めないという、人種差別がまかり通っていた時代では当たり前の光景だったが、ある意味で彼はその“壁”を乗り越えて、エンタテイナーという新しい“人種”の頂点に立ってしまったと言うことができるかもしれない。
だからこそ、シンガーとして、ダンサーとして、バンド・リーダーとしてというような些末なレヴェルでは評価できず、それが日本で矮小化される原因になっているのだろう。
いまでも残された音源や映像などで型破りな才能の片鱗に触れることはできるものの、全盛期のライヴを観た者でなければその全貌には近づくことができないに違いない。
当コラムではヴォーカリストのひとりとして紹介したが、それに留まらない足跡を残した巨人として記憶してもらいたい。
See you next time !