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【プレイバック「鎌倉殿の13人」】上総広常が源頼朝に殺された当たり前すぎる理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
上総広常を演じた佐藤浩市さん。(写真:Keizo Mori/アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、最終回を迎えた。今回は、上総広常が源頼朝に殺された理由について、詳しく掘り下げてみよう。

 治承4年(1180)に「打倒平家」の兵を挙げた源頼朝にとって、東国の豪族を味方に引き入れることは急務だった。頼朝がいかに源氏の嫡流とはいえ、流人だったので兵を持たなかったからだ。しかし、かつての家人なども馳せ参じ、みるみるうちに頼朝軍団が形成された。

 そのなかでキーマンとなったのが、上総国に勢力基盤を持つ上総広常だった。広常の率いる軍勢は約2万だったと言われているが、それは誇張が過ぎるだろう。広常も紆余曲折があったが、結局は頼朝に従った。

 とはいえ、広常の態度は傍若無人で、それは頼朝に対しても同じだったと伝わっている。しかし、その根拠史料は『吾妻鏡』であることから、後述する広常の殺害を正当化するため、あえて誇張して記した可能性もある。それは、広常が頼朝に従うまでの経緯についても同じである。

 頼朝にとって、大きな契機となったのは後白河法皇から「寿永2年の宣旨」を与えられたことだった。宣旨のなかでもっとも重要なことは、頼朝が東国の経営権を与えられたことだろう。

 これまで、頼朝は独力で東国における平家の勢力、あるいは頼朝に反抗する勢力を打倒してきた。ところが、「寿永2年の宣旨」を与えられることによって、頼朝は国家公権たる朝廷からお墨付きを得たことになる。

 頼朝が朝廷に接近したのは、東国支配を合法的なものとして、認めてもらいたかったにほかならない。それが頼朝の東国支配の正当性を担保し、御家人統制にも有利に作用するからである。

 建久元年(1190)、頼朝は後白河と面会したとき、広常が頼朝に対して朝廷へ接近することに不満を漏らしていたとの話をしたという。広常は東国武士団の自立性を重んじ、朝廷との関わりを嫌がっていた。これは、慈円が執筆した歴史書『愚管抄』に書かれた話である。

 この逸話により、広常が東国武士として独立の気概を持ち、頼朝に批判的だったことがわかる。頼朝は広常の反抗的な態度が許せず、殺害に及んだといわれる所以である。

 寿永2年(1183)12月、頼朝は梶原景時に広常の殺害を命じた。命を受けた景時は、広常と双六に興じている最中に広常を討った。広常が殺害されたので、子の能常は自ら死を選び、上総氏の所領は千葉氏、三浦氏に与えられた。

 なぜ広常は殺されたのか。頼朝が東国支配を有利に進めるため、朝廷に接近するのは当然のことだった。その一方で、広常は頼朝に従ったとはいえ、今後の東国支配を展開するうえで、障壁になる可能性があった。

 したがって、頼朝は後白河から得た「寿永2年の宣旨」を根拠とし、のちの憂いを断つべく、広常を討った可能性が非常に高い。その後、広常の所領が千葉氏、三浦氏に与えられたのだから、この両氏の意向も反映された可能性がある。

 頼朝が独立独歩の道を歩むためには、最大の勢力を誇る広常の打倒が必要だった。それは単に頼朝の意向だけではなく、あくまで有力な御家人の支持を得たものであろう。

 広常を打倒した頼朝は、御家人からの求心力をいっそう高めることに成功した。広常という憂いを断つことにより、頼朝による東国支配は堅固になったのだ。なお、翌年になって広常の願文が発見されたが、これについては偽文書ではないかという説もある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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