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【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝を討とうとして、返り討ちに遭った千葉県域の豪族

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
千葉の豪族のなかには源頼朝を討とうとして、返り討ちに遭った者もいた。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」7回目では、長狭常伴が源頼朝を討とうとして返り討ちに遭っていた。下総の千田親政も千葉常胤に討たれた。彼らが何者なのか、深く掘り下げてみよう。

■長狭常伴とは

 長狭常伴は、生年不詳。その出自だけでなく、生涯全般にわたって不明な点が多い。常伴は安房国長狭郡(千葉県鴨川市の大部分)に本拠を置く豪族で、平氏方に与していた。

 治承4年(1180)、源頼朝は石橋山で大庭景親と戦って敗れ、這う這うの体で安房国に渡海した。頼朝は現在の千葉県域の豪族を糾合し、再起を期そうとしていたのである。

 同年9月3日、上総行きを計画していた頼朝は、ある民家に宿泊した。これを知った常伴は、頼朝の宿所を襲撃しようと考えたのだ。頼朝を討てば、平氏からの恩賞が期待された。

 しかし、常伴の動きは事前に三浦義澄に察知され、常伴は返り討ちに遭った。三浦氏が常伴の怪しい動きを察知したのには、深い理由があったようだ。

 長寛元年(1163)、杉本義宗(三浦義明の子)が安房国に攻め込み、常伴と戦ったときの傷が原因で亡くなった。義澄は義宗の弟だったので、遺恨があったに違いない。それゆえ、常伴の動きを注視していたのだろう。

 同年10月、頼朝の命を受けた千葉常胤は、常伴の外甥・伊北常仲を討った。翌年、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)で上棟式が行われた際、常伴の郎党だった左中太常澄が復讐すべく、頼朝を暗殺しようとした。しかし、それは未遂に終わり、常澄は下河辺行平に討たれたのである。

■千田親政とは

 千田親政(ちだ ちかまさ)は生没年不詳、藤原親盛の子として誕生した。親盛は下総守を務める一方、娘を平重盛の妻として送り込み、さらに子の親政の妻に平忠盛の娘を迎えていた。つまり、平氏とは強い関係で結ばれていたのである。

 千田氏の勢力基盤は、千田荘(千葉県多古町)にあった。親政自身は皇嘉門院(崇徳天皇の中宮)判官代を務めるなどし、威勢を誇っていたのである。

 治承4年(1180)に頼朝が安房国にやって来ると、常胤は下総国の目代を討った。常胤は頼朝が西上して鎌倉(神奈川県鎌倉市)に入ろうとしたので、先行して敵対勢力を取り除いたのである。

 この一報を聞いた親政は、ただちに軍勢を率いて、常胤を討ち取ろうとした。しかし、親政は戦いに敗れ、成胤(常胤の孫)に生け捕りにされた。その後、親政は、下総国府(千葉県市川市)に到着した頼朝の面前に引きずり出されたのである。

■むすび

 東国の豪族は、概して平氏に反感を持っていたと思われがちだが、決してそうとは言い切れなかった。長狭常伴、千田親政は平氏に与して頼朝を討とうとしたが、無念にも返り討ちに遭ったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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