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[甲子園]第4日 タイムは失点につながったが……横浜・村田監督の母校愛(上)

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

 いいなあ。一塁側の三重も、三塁側の横浜(神奈川)も甲子園優勝経験のある強豪で、高校野球ファンにとっては、オリジナル性の高いブラバンも"強豪"。夏の青空に響く3年ぶりの生ブラバンは、両校の技量が高いだけに、すごくいい。

 それはともかく、試合である。三重・上山颯太と横浜・杉山遥希が好投を続け、どちらも少ないチャンスをどう生かすかが決め手となったが、4安打中3安打がタイムリーだった横浜が、4対2で接戦をしのぎ勝った。

 2点を先制した横浜、6回の守り。2死二塁のピンチで、横浜・村田浩明監督はタイムを取り、金野佑楽に伝令を託した。

「必ず2回は、ピンチが来る。これがそのうち1回目だ。次の1点で、試合が大きく変わってくる」

 杉山はここでタイムリーを許し、1点差とされるがなんとか追加点を阻むと、4対1とした9回にも、2死からヒットを許した。さらに暴投で2死二塁と「2回目の」ピンチ。村田監督の予言通りだ。ここも伝令を出し、やはり1点を許したものの、そのまま逃げ切り。横浜は、歴代15位タイに並ぶ甲子園60勝目を記録することになる。

 村田監督はいう。

「渡辺(元智)元監督、小倉(清一郎)元部長が積み上げてきた数字に加算できたのは、うれしく思います。横浜高校の伝統と歴史をつないでいく、という思いが強いので」

 そう、村田監督の横浜愛はことのほか強い。なにしろ、県立高校の教員という安定した公務員の職をなげうって、母校のピンチを引き受けたのだ。

全国きっての名門。「再建は、オマエしかいない」

 神奈川・川崎市の小学生時代。村田少年のチームは、全日本学童軟式野球大会マクドナルド杯で、神奈川県大会の決勝まで進出する。だがそこで敗れ、小学生の甲子園と呼ばれる全国大会出場はならなかった。

 翌日の新聞に掲載された結果を見る。悔しさがもう一度こみ上げたが、下にある記事に目が止まった。横浜・渡辺監督のことが書かれている。

 1986年生まれの村田監督の小学校6年といえば98年で、ちょうど横浜が春夏連覇した年だ。全日本学童の神奈川の決勝が行われたのは、時期的には横浜が春の関東大会を制したあとくらいか。

 なにぶん小学生だから、高校野球のことは詳しく知らず、内容は細かく覚えていないにしても、村田少年は渡辺監督の記事にいたく興奮した。そしてその後、横浜が春夏連覇を達成するにいたり、自分も横浜高校で野球を……と思った。

 あこがれの高校に進むと、2年だった2003年センバツでは、1学年上の成瀬善久(元ロッテほか)、同学年の涌井秀章(現楽天)が投の二枚看板で、それを支える捕手として準優勝を経験。04年には、福田永将(現中日)の入学で控えに甘んじたが、夏は脳梗塞で入院した渡辺監督が不在。そのチームを主将として統率し、甲子園に導いた。チームメイトが「村田がキャプテンでなければ、バラバラになっていた」と言う人間力を渡辺監督は高く評価し、「指導者になれ」と道を示したという。

 その言葉が響いたのだろう。村田監督は日体大に進み、卒業後はまず県立霧が丘で野球部長を務め、13年には白山に異動して部長を経て秋から監督となった。すると、母校とはまるで違う「打撃練習が終わったら帰りたがるような生徒たち」を徐々に鍛え、18年夏には北神奈川大会でベスト8まで進出。県立高校に就職した以上は、「県立で甲子園へ」というのが夢で、それにちょっと近づいた。

 その矢先である。母校・横浜を激震が襲った。19年秋に暴力事件が発覚し、前監督らが解任されるのだ。

 渡辺・元監督が15年夏で勇退して以来も、藤平尚真(現楽天)、増田珠(現ソフトバンク)、万波中正(現日本ハム)、及川雅貴(現阪神)ら、各年代に逸材はいた横浜だが、甲子園には出ても3回戦進出が精一杯。その間にライバル・東海大相模は15年夏、21年センバツと優勝しているから、手をこまねいていては強豪の看板が色あせかねない。そこへもってきての不祥事。渡辺元監督が「オマエしかいない」と再建を託したのが、村田監督だった。

 ちょっと長くなったので、続きは(下)で……。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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