織田信長の説得にも応じず、悲惨な生涯を歩んだ荒木村重の末路
現在、尼崎市立歴史博物館で企画展「尼崎を駆け抜けた戦国武将 細川高国・三好長慶・佐々成政」が開催されている。今回は、荒木村重がたどった末路について考えてみよう。
天正6年(1578)9月下旬から10月中旬にかけて、村重の謀反が発覚した。福富秀勝、佐久間信盛、堀秀政、矢部兼定が村重のもとを訪れ説得したが、応じることがなかった(『左京亮入道隆佐記』)。
同年10月21日、信長は松井友閑らを村重のもとに遣わし、「不足があるならば申してみよ、村重に考えがあるならばそのように申し付けよう」と伝えると、村重は「野心などございません」と返答した(『信長公記』)。
信長がそこまでして村重を慰留したのは、敵対する本願寺、毛利氏、足利義昭の勢力が気掛かりだったからだ。信長は村重に母を人質として差し出すよう命じ、出仕を認めようとしたが、村重は翻意しなかった。村重の謀反により、信長は苦境に立たされることになった。
ところが、村重が頼みとする高槻城主・高山右近、茨木城主・中川清秀が信長に帰順し、信長は有利になった。同年11月6日の木津川沖海戦で、織田軍が本願寺、毛利氏を破ったので、信長は村重の引き留め工作を中断し討伐することを決意した。
同年11月中旬頃から、総大将の織田信忠(信長嫡男)による村重の居城・有岡城への攻撃は長期に及び、籠城戦は10ヵ月に及んだ。翌天正7年(1579)9月、村重は密かに有岡城を抜け出し、尼崎城に逃れたのである。
同年11月、有岡城は落城し、村重の妻子ら30余人が捕らえられた。村重は降伏を勧告されたが、拒否した。怒り心頭に発した信長は見せしめとして、京都で村重の妻子36人を斬り殺し、家臣およびその妻女600人余を磔刑、火刑に処した。
その後、村重は尼崎城から花隅城(神戸市中央区)へ逃亡し、妻子が悲惨な目に遭いながらも抵抗を止めなかった。天正8年(1580)7月に花隈城が落されると、毛利氏のもとに逃亡したのである。以後、約2年にわたり、村重の動静は不明となる。
天正10年(1582)6月の本能寺の変後、村重は千利休から堺で茶を学び、道薫と号した。のちに村重は茶の宗匠として、秀吉に仕えるという皮肉な運命をたどった。村重が堺で亡くなったのは、天正14年(1586)5月のことである。