「板書用」という通念を捨て、積極的な情報記録ツールとしての活用を提案『すべてはノートからはじまる』
倉下忠憲さんについて
倉下忠憲さんについては、直接の対象こそ違うものの、テーマに対するスタンスが自分とよく似ているなぁという感想をずっと持っていた。それに関しては、以下にnoteを書いた。
https://note.com/tategami/n/n52526d3e5a50
で、このnoteの中でも触れているけれど、倉下氏の新刊『すべてはノートから始まる』(星海社新書)がいよいよ今月末に刊行になる。筆者ご自身からご恵投いただき、一足先に読む機会を得たので今回は同書を紹介したいと思う。
結論から言えば、これはノートというものを、抽象的に煎じ詰めた上で、各種技法に言及。その上で、ノートというツールの本質と可能性を考察・追求した書籍だ。
だから、というべきなのか、「ノート」という単語がついたタイトルであるにもかかわらず、具体的なノートという商品はほぼ出てこない。わずかに「コーネル式」が方法の名前として出てくるだけだ。
言ってみれば、ノートというものとその各種利用方法、それが実現する各種のメリットを徹底的に考察し、実行を提案する本である。
ノート術本の歴史をふりかえる
世の中にいわゆるノート本と呼ばれるものはたくさんある。そこは手帳術の本とよく似ている。
そしてそれらのほとんどは、 その本の著者自身が発見した“究極メソッド”の紹介とその実践の結果だ。
いわば、サンプルが1つしかない成功例だ。再現性についての言及はあまりないように思える。
あるいは、自伝とか私小説的と言えるかもしれない。
その上で懇切丁寧に独自の手法を解説している。
例外は新家元制度的な展開だが、これはまずその展開が目的としてあるともいえる。ただ、新家元制度的な展開をするなかで、再現性の事例があればそれはその手法の実効性の証言として拾われるだろう。
ノート術本の元祖的存在『知的生産の技術』(梅棹忠夫 岩波新書)では、著者がフィールドワークをする学者であることで、再現性については語られることはなかった(※同書中に登場するのは、ノートではなく正確にはカードだが)。
ただし、これらの方法が属人的ではあっても、ノートとペンさえあれば、すぐにはじめられる点では、やってみるためのハードルは低い。
そして、いろいろなノート術が次から次へと現れ、またそれ専用のノートが限定的または継続的に発売されるのが、ノート術の歴史だったと言える。
ノート術の歴史における一種のマイルストーン
その歴史の中にあって、倉下氏の今回の著書は、ノートという記録媒体の本質をきっちり考察し、その可能性をあらためて検討している点で、異彩を放っている。
ノートを教室における板書の受け皿と考えるのは、想像力の枯渇というよりは放棄だ。
そうではなく、古今の各種方法を適宜参照しながら、ノートの力をあらためて考え、目的別に各種方法を整理している点で、本書は一種のノート術のマイルストーンと言えるのではないか。
蛇足
ひょっとしたら、Amazonに今後以下のようなレビューがあらわれるかもしれない。これは予感(というか悪寒)だ。
「○○ノート術がでていない」
「○○術について触れられていない点が残念」
いや、これはそういう本じゃないのだよ。ノートというツールとその可能性について、考えようという本なのです。
だからというべきなのか、本書には「ノート」とタイトルに入っていながら、その種の本によくある、各社の各種製品を紹介したカラー口絵はない。それは本当にいさぎよいほどだ。
もう一つ蛇足。この本の装丁について。表紙についてもそうだが、実は本文背景にも横罫があしらわれている。つまり、この本自体がノートに書かれた着想を元に生まれたことを示唆していると言ったら考えすぎだろうか。
もしノートに興味があったら、またノートを使っていて今ひとつしっくりきていない人がいたら、是非本書を手に取ってみることをおすすめする。
使いはじめる動機とか、しっくりいっていない理由などがつかめるのではないかとおもうからだ。
来週 Clubhouseイベントやります
来週27日(火)、Clubhouseで著者に私が色々質問するイベントをやります。Twitter(@tategamit)でも告知していますので、ぜひご覧ください。