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トイレでうたた寝? していた伊藤美誠が史上初の快挙

楊順行スポーツライター
女子単準決勝では、優勝したダブルスのパートナー・早田ひなを撃破(写真:西村尚己/アフロスポーツ)

「卓球をやりたい、といったのを覚えているんです。両親が練習している体育館に連れられて行くと、一人で遊ぶじゃないですか。でも、そのうちにあきちゃったんでしょうね。『美誠もやりたい、ラケットちょうだい』(笑)。そのままラケットを買いに行って、その日に卓球を始めました。2歳のときです」

 全日本選手権で、女子としては史上初めて、2年連続三冠を達成した伊藤美誠の思い出話である。のちには静岡県磐田市に移り、水谷隼の父が結成した豊田町卓球スポーツ少年団でプレー。つまり、やはり今回の全日本選手権・男子単で最多のV10を達成した水谷と伊藤は、同じスポ少の出身というわけだ。2016年のリオ五輪で、そのどちらもがメダルを獲得するというのはなんとも劇的で、そのことは16年3月6日付の拙文『水谷隼と伊藤美誠は、なんと同じ少年団出身! 世界卓球』(https://news.yahoo.co.jp/byline/yonobuyuki/20160306-00055081/)でもふれた。

 卓球を始めた2歳のころは、横浜在住。そのままラケットを買いに行った、というディテールの細かさは、それだけ鮮烈な記憶として残っているということだろう。やがて磐田に移り、少年団に所属するのが5歳のとき。8歳でバンビの部に優勝すると、2011年には全日本選手権で史上最年少勝利を記録した。伊藤は振り返る。

「2歳の終わりには、もう試合にも出たんですよ。バンビの部(小学校2年以下)だったんですが、それでも卓球台(66センチ)が高すぎて届かず、すのこみたいなのを2枚重ねて、その上でやったんです。でも、前の球には届かなくて捕れないじゃないですか。それで負けてしまいました」

幼少時から「世界チャンピオンになる」

 ただ、当時からすでに「世界チャンピオンになる」と口にしていたといい、選手経験のある母・美乃りさんは、本気の練習でそれに応えた。少年団の練習のほかにも、自宅のリビングに卓球台を置くなどして、なんと1日8時間。古いたとえなら、『巨人の星』の星一徹と飛雄馬ばりの厳しさだった。

「スポ少の練習がない日には、高校生の集まるクラブや、浜松の企業チームまで行って練習させてもらったり、家でやったり。でも、お母さんが厳しくて(笑)。幼稚園のころだったら、帰ったらまずひと眠りして、5時ころから練習を始めて、ときには夜中の2時ころまでやるんですよ! 眠いんで、トイレのふりをしてしゃがみながら、10分くらいうたた寝していました。ときには反発したんですけど、お母さんが怖すぎて(笑)、ボールを投げつけられたりするんです。だけど卓球が好きだったし、友だちもたくさんいたから、やめようとは思いませんでした。2年生になるころには、母親と試合をしてもいい勝負ができるようになりましたし。

 ほかのスポーツも、よくやりました。なにしろ磐田ですからサッカーが盛んで、小学校の休み時間は、磐田のスクールにいる男の子たちとボールを蹴っていたし、バスケ、バド、テニス、野球……なんでもやっていました。いまでも『小さい割に、パワーがあるね』といわれるのは、遊びながらでもサッカーやほかのスポーツをやったおかげで、足腰が強くなったからかもしれません」

 なんともすさまじい練習量だが、08年にはバンビの部、2010年にはカブの部(小4以下)で優勝。12年には、ワールドツアーの本戦に史上最年少で出場し、世界ジュニア選手権で団体戦銀メダルを獲得するなど、徐々に世界を視野にとらえるようになる。その小学6年のころに書いた作文を見せてもらったことがあるが、「私は2016年には、(オリンピックに)出場して、2020年には、団体優勝、個人戦で優勝したいと思いました」とある。

「その作文は確か、『将来の夢』というテーマでした。目の前で見たロンドン五輪の団体戦で、日本が銀メダルを取ったのにすごく感激したことを覚えていますが、その時点ではリオのことは意識していなかったですね。20年の東京開催もまだ、決まっていなかったと思います」

サーブの種類は「自分でもわからない」

 そして16年のリオ五輪に出場すると、作文に書いた以上の団体戦銅メダルを獲得。そして昨年11月のスウェーデンOPでは、世界ランクで上位にいる中国勢3人を撃破するなど、いまや、来年の東京五輪でも有力なメダル候補だ。大きな武器は攻撃的なスマッシュと、「自分でも何種類あるかわからない」という、変幻自在なサービス。そういえばかつて、こんなふうに語っていた。

「ラケットを使うスポーツって、ほかの球技と違い、相手とぶつかることがないじゃないですか。その分、ボールに変化をかけたりする細かい技術がやりやすくなります。たとえばサーブだったら、邪魔されることなく自分の思った変化をつけられますし、それによってラリーが有利にもなる」

 そして、こう付け加えたのだ。

「東京で団体、個人で優勝することが大きな目標だから、夢の途中。もし東京でそれがかなわなくても、まだ19歳ですからその次、またその次と、ずっと追い求めていくと思います!」

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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