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シリアの化学兵器問題:CWCは「魔法の杖」にあらず

小泉悠安全保障アナリスト

ラヴロフ露外相の提案

シリア問題は急転直下の展開を見せている。

ロシアのラヴロフ外相が今月9日、シリアの化学兵器を国際管理の下に移すと共に、シリアを化学兵器禁止条約(CWC)に加盟させることを提案したのである。

これにより、目前に迫っていると思われた米国の軍事介入は当面、遠のく格好となった。

シリアへの軍事介入に反対し続けてきたロシア(その背景については以下の拙稿を参照)としては、近年希に見る「外交的勝利」とも言える。

今回のロシア外交のしたたかさについては別の機会に分析するとして、本稿では、シリアの化学兵器の行方について考えてみたい。

どこに何がどれだけ?

ハーグにあるOPCW本部
ハーグにあるOPCW本部

今月12日には、シリアは国連に対してCWCへの加盟手続きを行った。

これはこれで大きな一歩だが、同時に最初の一歩でしかない。

どこにどんな種類の化学兵器がどれだけあるのか、といった基本的なデータが全く不足していくためだ。

つまり、シリア政府が化学兵器を「これで全部です」といって提出してきたとしても、本当にもう化学兵器は残っていないのか、あるいはこっそり製造する能力があるのでは無いか、といった疑問は常に残る。

このため、国際社会は今後、CWCの枠組みでシリアの化学兵器の現状を正確に把握し、厳しく管理していくための努力を強いられることになる。

CWCは冷戦後の1997年に発効した条約であり、それだけに現行の軍備管理条約としては最も厳しい検証レジームを持っている(冷戦期につくられた生物兵器禁止条約が、当時の国際情勢故に厳密な検証手段を定められなかったのと対照的である)。

その詳細は我が国の外務省公式サイトで閲覧することが可能だが(http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bwc/cwc/jyoyaku/pdfs/19.pdf)、OPCW(化学兵器禁止機関)への年次報告書や保有化学兵器の廃棄計画の提出に始まり、廃棄状況を査察する査察団の受け入れなど、加盟国は徹底的な国際管理の下に化学兵器の破棄を進める義務を負うことになる。

化学兵器か溶剤か

問題は、シリアがこうした義務をきちんと履行するか、あるいはどう履行させるか、である。

シリアのCWC加盟を受けて14日に結ばれた米露合意によると、シリアは1週間以内に化学兵器に関する情報の申告を行い、11月末までに第一次査察を完了するとしているが、これはあくまでも「第一次」措置に過ぎない。

少なくとも、化学兵器やその生産・貯蔵施設すべて(ロシアによると42箇所もある)を査察団が査察し、その他の情報とも付き合わせた検討を行って、シリアの化学兵器全体に関する現状把握を行うだけでも1年程度はかかるのではないだろうか。

しかもシリアではCWC加盟を受けて軍が化学兵器を全国50箇所に分散して隠匿しようとしているとも言われている上、8月には国連の査察団が乗った車が銃撃される事件も起きており、査察がスムーズに進むかどうかがそもそも不透明である。

もうひとつ厄介なのが、何を以て「化学兵器」と認定するのかは意外と難しい、ということだ。

というのも、多くの神経剤はあまりにも毒性が強すぎるため、爆弾や弾頭の中では無害な(あるいは毒性が少ない)別々の物質として充填しておき、発射されてから内部で混ぜ合わせて有害な化学剤に合成するという方式を採用しているからだ。

こうした化学兵器をバイナリ型といい、シリアで使用されたと言われるサリンの場合であれば、イソプロピル・アルコールとメチルホスホン酸ジフルオリドに分けて弾頭や爆弾に充填されている。

ところが、イソプロピル・アルコール自体は溶剤や消毒薬としてごく普通に利用される化学物質であるから、たとえば査察団がイソプロピル・アルコールの工場を発見したとしても、シリア側は「いえ、これはただの溶剤工場です」と言い張るかもしれない(あるいは本当にただの溶剤工場であるのもかもしれない)。

もちろん、すでに国際社会はこうした曖昧性も含めて化学兵器の廃棄や拡散防止を進めてきたわけであるが、決して単純に「毒ガス」を禁止すればよいというような単純な話では無い、ということはここで指摘しておきたい。

どこで処理するか

続いて問題になるのが実際の破棄プロセスだ。

米露合意では来年前半までにシリア政府に化学兵器を完全放棄させるとしているが、(仮にシリアがそれに同意したとしても)これは「放棄」であって「破棄ではない。

つまり、化学兵器をシリア政府に手放させた上で、今度は化学的に処理して無力化する作業を経なければならないわけだが、これにはさらに長い時間が必要とされることが予想される。

Vガスを搭載したソ連軍のルナーMロケット
Vガスを搭載したソ連軍のルナーMロケット

かつて世界最大の化学兵器保有国であったロシアを例に取ると、1993年にCWCに加盟した時点で、同国は約4万トンの各種化学兵器を保有していた。

だが、当時のロシアにはこの膨大な化学兵器の処理施設を建設する財政的余裕は無く、世界各国の援助によってようやく2002年から廃棄に着手することができた。

現在では、国際援助とロシア自身の予算によってロシア全土の7箇所で化学兵器の処理施設が稼働している。

ただし、これまでに処理できたのは大部分が第1世代のびらん剤(ルイサイト、イペリット等、身体の表面をただれさせるなどの効果を持つ化学剤)であり、より致死力の高い第2世代の神経剤(サリン、ソマン、V系ガス)の処理はまだ部分的にしか進んでいないのが現状である。

すでに大規模な処理施設が多数稼働している現状でさえ神経剤の処理は難しく、時間が掛かるのだ。

シリアについても、少なくともサリンを保有していることはたしかであると見られるから、シリア国内で廃棄処理を行うとすればやはり相当の設備投資と時間が必要となろう。

そこでロシアが提案しているのが、シリアの化学兵器をロシアに移送して処理するという案だ。

前述したロシア国内にある7箇所の化学兵器処理施設のうち、5箇所は神経剤の処理能力を持っているから、これもたしかに不可能ではない。

ただ、キーロフ州のマラドゥイホフスキーにある航空機用化学爆弾の処理施設を除くと、大部分の処理施設ではまだ備蓄量の数%を処理できたという段階に過ぎず、新たにシリアからの化学兵器を受け入れて処理するキャパシティがあるかどうかは疑問である。

軍事オプションは放棄されていない

最後に、シリアへの攻撃はまだ完全に中止されたわけではない。

依然として米仏はシリアにCWCを履行させるための圧力として軍事オプションを排除してはおらず、ロシアはこれに反発している。

繰り返しになるが、シリアのCWC加盟は「第一歩」であって、「二歩目」以降をどうするかは依然として大きな国際的問題であり続けている。

安全保障アナリスト

早稲田大学大学院修了後、ロシア科学アカデミー世界経済国際関係研究所客員研究員、国会図書館調査員、未来工学研究所研究員などを経て、現在は東京大学先端科学技術研究センター特任助教。主著に『現代ロシアの軍事戦略』(筑摩書房)、『帝国ロシアの地政学』(東京堂出版)、『軍事大国ロシア』(作品社)がある。

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