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2022年7月3日 飛込界の21年間止まっていた時計が動き出した日

田坂友暁スポーツライター・エディター
(写真:ロイター/アフロ)

 こんなにも最高の瞬間が一度に訪れたことなど、いつ以来だろうか。

 第19回FINA世界選手権(ハンガリー・ブダペスト)の最終日、女子3mシンクロ飛板飛込、男子高飛込の2種目でふたつの銀メダルを獲得したのである。

 飛込種目で世界選手権のメダルを獲得したのは21年前の2001年に行われた福岡大会。当時はまだ21歳だった寺内健(ミキハウス)が男子3m飛板飛込で銅メダルを獲得。そして女子10mシンクロ飛込で宮嵜多紀理と大槻枝美のペアが同じく銅メダルを獲得した。

宮嵜多紀理と大槻枝美
宮嵜多紀理と大槻枝美写真:アフロスポーツ

 あれから、飛込競技では世界のメダルから遠ざかってしまった。同じアジア人の中国が活躍しメダル獲得数を伸ばしていくなか、日本は決勝にすら進めず、五輪の出場権も得られないときもあったほどに低迷してしまう。

 そんな飛込界を支えてきたのは、寺内だった。常にミスをしない演技の大切さをその身体にムチ打って体現してきた。トレーニングの大切さ、毎日の積み重ねの大切さを後輩たちに伝えるだけではなく、その身体を使って教え続けてきた。

2001年に銅メダルを獲得した寺内健
2001年に銅メダルを獲得した寺内健写真:ロイター/アフロ

 その結果、同じJSS宝塚から板橋美波という全身バネのような選手が才能に溺れることなく、毎日の努力を欠かさない勤勉さで世界で女子選手ただひとり、109C(前宙返り4回半抱え型)を飛ぶ選手にまで成長した。さらには荒井祭里という、厳しいトレーニングで有名な馬淵崇英コーチが止めるほどの努力の固まりのような選手も続いて世界に羽ばたいていく。

 いつしかその世界レベルのマインドは日本全国に波及していき、若手が世界を見据えたトレーニング、そして大会への取り組みを始める。そうして現れたのが、三上紗也可、金戸凜という選手たちだった。

 大会15日目、最終日の前日に行われた女子3m飛板飛込で、4本目まで2位をキープしていた三上は、5本目で大きなミスダイブでメダルがその手からすべり落ちてしまった。その悔しさは、一朝一夕に切り替えられるものではない。だが、三上にとって幸運だったのは、その翌日、大会最終日に金戸と共に迎える女子3mシンクロ飛板飛込があったことだった。ふたりが同室だったことも功を奏したのかもしれない。三上が「メダルを獲らないと帰れない」と悔しさをぶつけ、金戸がそれに応えるようにして「自分は明日のためにきた。だから一緒にメダルを獲って帰ろう」と誓う。

 三上にとって、共に戦う仲間である金戸がそばにいてくれて、さらに共に戦う種目が次の日にあったからこそ、気持ちを切り替えることができた。

写真:ロイター/アフロ

 この女子3mシンクロ飛板飛込は、中国のCHANG YaniとCHEN Yiwenを除いて、あとは大混戦。しかも全員の難易率がほぼ同じで、ひとつのミスで大きく順位が入れ替わるということは事前から分かっていた。

 だからこそ、苦しい戦いになることは分かっていた。『最高の演技をすれば獲れる』よりも『ミスができない』ほうが、よっぽど精神的なプレッシャーは強い。

 だが、このふたりには問題なかった。1本終わるごとにふたりで談笑し、常にリラックスして臨んでいた。

「話していたのは、本当に何も関係ないことです」と金戸。それが三上にとっては、本当に心の支えになったのだろう。三上が金戸に見せるその表情は、信頼に満ちあふれていた。きっと三上も金戸も、こう思っていたことだろう。

『ふたりだから、大丈夫』

 最終5本目。三上・金戸ペアの得点は233.70の2位。1位の中国からは既に30ポイント以上離れていた。勝負は3位以下。3位はオーストラリアで、その差はたったの0.78ポイント。4位のカナダも10.20ポイント差で続いている。

 ただ、幸いだったのはオーストラリア、カナダ、ドイツとメダル争いをするチームよりも先の演技順だったことだろう。

 三上・金戸ペアは最後の205Bで少しシンクロ率はずれるも入水はバッチリ決める。ふたり肩を寄せ合い得点の表示を待つ。表示された得点は、69.30。合計303.00と300ポイントオーバーを叩き出すことに成功した。

 安田千万樹ヘッドコーチが、両手を広げてふたりを迎える。昨日は三上を慰めるためだったかもしれないが、今日は違う。歴史を塗り替えたふたりを祝福する、喜びに満ちた抱擁だった。

「私は今日のために来たので、メダルが獲れて今は本当にホッとしています」(金戸)

「まだ実感はわかないですけど、昨日のリベンジは果たせたかなって思います」(三上)

写真:ロイター/アフロ

 表彰台から見た景色はどうでしたか、という質問に、ふたりはこう答えた。

「プールに着いたときに表彰台のセットを見て、絶対にあそこにいきたい! って思っていたので、すごくうれしかったです」(金戸)

「競泳の200m平泳ぎで銀メダルを獲った花車優選手の表彰まで見たんですけど、それを見てから私もあそこに登りたい! と思っていました。なので、自分も表彰台に登れて本当にうれしかったです」(三上)

 日本チームの興奮冷めやらぬうちに、今大会を締めくくる最後の種目、男子高飛込の決勝がスタート。

 なかなか世界大会で決勝にすら進めなかったこの種目だったが、寺内、板橋、荒井の後輩である、玉井陸斗が東京五輪で7位入賞したことをきっかけに、日本国内のレベルも急上昇。玉井だけではなく、大久保柊も決勝進出を決め、なんと2人で世界選手権の決勝の舞台を戦うこととなった。

 それだけでも十分に日本の飛込界からすれば進歩ではあるが、今回はそれだけで満足できるものではない。目指すは、メダル獲得だ。

 準決勝を3番手で勝ち上がってきた玉井は、1本目、2本目とまずまずの滑り出し。特に「2本目の207B(後ろ宙返り3回半エビ型)が決まればうまくいく」。玉井が試合前からキーポイントに挙げていた2本目で70.20ポイントを獲得できたことで、不安は吹き飛んだ。

 3本目の109C(前宙返り4回半抱え型)では審判員が9ポイントをつけ、99.90の自身最高得点を叩き出した。しかもこの3本目で中国のふたりが崩れ、なんとこの時点で玉井が1位に躍り出た。

写真:ロイター/アフロ

 続く4本目の6245D(逆立ち後ろ宙返り2回2回半捻り自由型)も86.40で1位をキープ。このまま流れに乗りたかったが、鬼門の307C(前踏み切り後ろ宙返り3回半抱え型)で気合いが入りすぎたか、入水でオーバーしてしまい56.10と得点を下げて4位転落。

 だが3位までは7.75ポイント差。それにほかの選手の難易率と、玉井の5255Bを比較すると、得点的には十分に逆転が可能な位置だった。

 そして迎えた最終演技。4本目を終えて2位につけていたオーストラリアのROUSSEAU Cassielが481.15で演技を終える。玉井は90ポイント以上の演技をすれば逆転可能だった。予選で一度91.80を出しているだけに期待感は高まる。

 玉井もそれを分かっているのか、緊張した面持ちで10mに立つ。顔を叩き、胸をなで下ろし、お腹を触る。自分に落ち着けと言っているようにも見えた。

 そして、飛ぶ。捻る、回る。入水が決まった瞬間、大歓声が沸き起こる。得点を待つ玉井もどこか期待しているようだった。

写真:ロイター/アフロ

『95.40』

 両手で力強くこぶしを振り上げ、ガッツポーズを見せた玉井。こんなに感情あらわに喜ぶ玉井は見たことがない。

 そんな玉井の執念が何か力を持ったのか、580ポイントを叩き出したこともある中国のYANG Haoが最後の109Cで入水が乱れ、まさかの80ポイント台と得点が伸びず。この瞬間、玉井は目標にしていた以上の色の銀メダルを勝ち取り、三上と金戸に続き、日本飛込界に新たな歴史を刻み込んだ。

「まだしっかりと理解できていないですけど、銀メダルはめちゃくちゃうれしいです。勝てるはずないと思っていた存在の中国に勝てたことは、自信につながりました。尊敬する寺内(健)さんの記録をこれまでもたくさん塗り替えてきましたが、今日塗り替えることができた記録(寺内は銅メダル)がいちばんうれしいです」(玉井)

写真:ロイター/アフロ

 今大会は表彰式がまとめて行われていた。最初に三上と金戸が表彰台に登る。笑顔で手を振りながら。

 そして玉井。笑顔で何度も手を振る。いつも冷静に自分を客観視する印象の強い玉井だが、このときばかりは15歳そのものだった。

 金戸が表彰式後に言っていた。

「今だけはこの喜びに浸りたいと思います。で、日本に帰ったら、またイチから頑張ります」

 過酷な戦いを勝ち抜いた選手たちよ、今は歴史を塗り替えたその功績を噛みしめてほしい。そんな瞬間があったっていいじゃないか。みんなの努力が報われた瞬間が訪れたのだから。今はただ、喜ぼう。日本の飛込界に新たにもたらされた銀メダルを。

スポーツライター・エディター

1980年、兵庫県生まれ。バタフライの選手として全国大会で数々の入賞、優勝を経験し、現役最高成績は日本ランキング4位、世界ランキング47位。この経験を生かして『月刊SWIM』編集部に所属し、多くの特集や連載記事、大会リポート、インタビュー記事、ハウツーDVDの作成などを手がける。2013年からフリーランスのエディター・ライターとして活動を開始。水泳の知識とアスリート経験を生かして、水泳を中心に健康や栄養などの身体をテーマに、幅広く取材・執筆を行っている。

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