樋口尚文の千夜千本 第156夜「スパイの妻」(黒沢清監督)
ファシズムの魔には映画の魔を
黒沢清監督の映画を観ていると「濾過」と「越境」を同時に体験することになる。たとえば『クリーピー 偽りの隣人』を観ていると、その猟奇殺人鬼を描くサスペンスが映画的な要素のみに「濾過」され、映画の純度を増してゆくに連れて、サスペンス以外の映画に「越境」してゆくのを体感する。『散歩する侵略者』は侵略SF物、『ダケレオタイプの女』は降霊オカルト物、『旅のおわり世界のはじまり』は(言うなれば)自分探しヒロインのアイドル映画……に発して、そのジャンルの包装を「濾過」された映画の正体が見えてくるにつけ、何やら別の映画への「越境」が開始される。
さてそれが何の映画であるかは問題でなくて、要は映画はさまざまなジャンル特有の物語や匂いをとば口として始まるが、その涯にあるのはもはや何だかわからないくらい肥沃で広大な映画の地平であって、黒沢清作品はジャンルの面白さにおびき寄せられながら、いつの間にか凄まじき映画の本拠にまで連れて行かれてしまう。そんな黒沢清が本作『スパイの妻』では初めて8Kを用い、しかも間諜物に挑んだというのはいたく胸騒ぎのする企画である。
舞台は太平洋戦争開戦直前の神戸、そこで貿易商を営む福原優作(高橋一生)は満州へ渡り、謎の女・草壁弘子(玄理)を連れ帰る。ところがほどなく弘子は遺体となって海に浮かび、憲兵の監視も厳しくなる。優作の愛妻・聡子(蒼井優)のもとに幼馴染の憲兵分隊長・津森泰治(東出昌大)が訪れ、優作と弘子の間に何かただならぬ関係がありそうなことを仄めかす。
いったい優作は陰で何をたくらんで動いているのか。弘子とは何者で、優作とはどういうつながりがあるのか。本作は聡子の視点で語られるので、前半はこうした謎がたちこめてゆくミステリーを観客が共有することになる。その過程を無駄を削った台詞と所作によって描く中盤までの、ひんやりとした空気感が快い。そして、ついに優作の抱えている秘密の核心、弘子との関係、今後のきわどいたくらみを知らされた聡子は、毅然たる優作の支援者に転ずる。
そして優作と聡子は軍部ファシズムに一矢報いるべく、ある危うい計画を実行に移すのだが、前半のミステリーはこうして後半にサスペンスに転調する。夜の貨物船の船倉を舞台にした緊迫の場面は映画的で印象的だが、黒沢清は、宴会の座興のために聡子を女ジゴマのようなヒロインにして映画を作ってしまうという優作のハイカラな趣味を口実にして、なんと前半のミステリーと後半のサスペンスをそれぞれ収拾させる「切り札」として「映画」を持って来る。
それがどういうものかは未見の方のために伏せておくが、黒沢のその詭計によって、見えざる忌まわしき敵であるファシズムはおぞましく形象化され、『回転』から越してきたような『ダゲレオタイプの女』の風流な女優霊とはまるで違う不快な何ものかとして描かれる。ミステリーからサスペンスへと誘導されていたわれわれは、ここでやにわにホラーに迂回させられ、したたかに「濾過」された本作はまたしても意外なかたちで「越境」を果たす。
高橋一生と蒼井優は、熱演を抑えることでこの明晰な作品世界になじんでおり、そのモデル的なルックが到底この頃の憲兵には見えない東出昌大も、逆にそのフィギュアじみた雰囲気が冷たさを感じさせて健闘していた。そして今ひとつの主人公と言うべきパテベビーのカメラと映写機のセットは、あのフランスのパテ社が大正11年に発売し、まさに本作の福原のような輸入業者が早々に日本でも売り始めたものだった(だからこそ本作のように福原が贅沢な趣味として映画を撮っているのもまるで無理な設定ではない)。
パテベビーが流通したおかげで意外や戦前も個人映画のクラブやコンテストは盛り上がっていたようだが、そんなハイカラな文化を根絶やしにした原因も、太平洋戦争突入による物資欠乏でフィルムが手に入らなくなったことであった。